投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-11-15 20:34:31 (858 ヒット)

ご存知のマタイの福音書7章21節に、 わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父のみこころを行う者が入るのです。 とあります。

エホバの証人が、キリスト教の信徒を非難するのによくこの聖句を用いる。キリスト教の信徒は、ただキリストと言うだけで、いや、イエス・キリストに「主よ、主よ」と言って祈るだけで何にもしていないのではないかというのである。

 もちろん、これには裏がある。エホバの証人は、奉仕をしている。家から家へと訪問伝道をしているが、これは、マタイの福音書の終わり28章19節のイエス・キリストの命令に従っているというのだ。つまり「それゆえ、あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい」という命令に従っている。つまり奉仕として家から家へと訪問をしているのだから、エホバの証人は、神の命令に従っていると主張している。

 しかし、本当にそうだろうか。彼らエホバの証人は統治体の命令に従って、ほんとうに神の命令に従っているのだろうか。

マタイの福音書7章22節以降を読んでみよう。
「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 読んでいただいただろうか。イエス・キリストのことばである。訪問活動をすれば、それで神のみこころを行ったことになるだろうか。
 いや、とんでもない。「あなた(イエス)の名によって預言をした」人たちが、『あなたがたを全然知らない』と言われているのだ。
さらに、「あなた(イエス)の名によって悪霊を追い出し」た人たちが、『あなたがたを全然知らない』と言われているのだ。
 また、「あなた(イエス)の名によって奇蹟をたくさん行った」人たちが、『あなたがたを全然知らない』と言われているのだ。

この聖句にのっとって、エホバの証人たちの行動を見てみると、彼らは、エホバの王国を言い広めているのだ。つまりここでいえば預言をしたことになるのだろうか。
 それだけで父のみこころを行っていることにならないことは言うまでもない。

 パウロは、イエスのこと以外は一切知らないことにした。イエスが救い主だと宣言し伝道したのだから。

 エホバの証人は、聖書のひとことだけを信じるのではなく、そこに書かれている意味をよく理解しなければ神のみこころを理解することはできないし、もちろん父(神)のみこころを行うことはできない。(終わり)


 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-09-25 10:47:59 (596 ヒット)

エホバの証人は、またはエホバの証人統治体は、聖書は聖霊によって書かれたのだから、聖霊によって理解するという。聖霊によって書かれた聖書は、正しい(はずである)。正しいと認めるのが当然である。

しかし彼らエホバの証人統治体は、「聖霊によって理解するとこの聖書は違っていることがある。正しくないところがある」と公言する。

たとえば創世記の初めの箇所で神は6日でこの世のすべてを創られたこと。科学では認められないからこの箇所の聖書は違っているというのだ。

そしてエホバ神は、科学者だから正しくないことは行わないと言う。

聖書のみことばを真っ向から否定しておいてこれが聖書の正しい理解という。ことばの意味が全く理解されていない。すり替えに次ぐすり替えが行われていることに気が付いているのだろうか。(以上)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-09-07 10:46:46 (641 ヒット)

エホバの証人が自分たちをクリスチャンと呼び、そのように他の人たちからもそのように思ってもらいたいのであれば、もっと聖書を特に福音書とパウロの手紙を、自分でよく読んでみてほしいと思う。

エホバの証人は、イエス・キリストの力をもっとよく知るべきだと思う。

イエス・キリストを信じた時、異邦人であるコルネリオは聖霊を受けた。
そして聖霊は私たちに、罪について、義について、裁きについてその誤りを認めさせる(ヨハネ16:8)とあります。そして信じる私たちをすべての真理に導きいれてくださいます。(ヨハネ16:13)

エホバの証人が修養団体かというのは、そのことです。自分で何でもするというのは聖書が教えていることではありません。ところがエホバの証人はすべてを自分でするようにものみの塔を通して統治体から指導を受けているのです。

そしてこの指導によって統治体に頼らなくてはならなくされているのです。そしてその罠にはまるとものみの塔統治体の言うがままになってしまうのです。

そしてそのこともおかしいと思わなくなってしまいます。考えてみますと、イエス・キリストの力を、またそれは神の力でもあるのですが、その力を弱くすることによって、ものみの塔の指導力を強めているのです。

しかし統治体の造ったものみの塔が神やイエス・キリストの代わりをすることはできません。結局だまされてしまうことになるのです。(終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-09-06 19:56:48 (584 ヒット)

エホバの証人は、最近は堂々とクリスチャンと自称している。本当にエホバの証人がキリストを自分の救い主と信じてクリスチャンになってくれると良いと思うのだが、よく聞いてみると本当には信じていないことがわかるとがっかりしてしまう。

聖書の使徒の働きを見ると、イエス・キリストを信じたとき異邦人でも救われたと記されている。そして神の子と呼ばれるのだ。
そして彼らは聖霊が注がれる。そして聖霊の助けによって聖霊の実が生まれるのだ。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-08-31 12:53:07 (583 ヒット)

「エホバの証人は修養団体か。」という題は、「イエスは、エホバの証人の模範となるためにこの世に来られたのか」と言い換えてもよいかもしれない。エホバの証人にとってはこのことが最も大事なことのようであるから。

聖書を、特に福音書だけを読んだだけでも、イエスがエホバの証人の模範となるためだけにこの世に来られたとは考えにくい。イエスは貧しい人、困っている人のそばにいて慰め、奇跡をおこなう。自分が神に対して罪人であると考え悔いている人は、自分が神に従っていると考えて思い上がっている聖書学者、祭司たちよりも神のみ心に近いと主張した。

エホバの証人は、善い行いをしているような人を見れば、あなたはそのままですぐエホバの証人になれますなどと入信を勧めてるのだから、彼らが神様の目で見ているとはお世辞にも言えないのだが。

本当に神さまに従うということはどういうことか、彼らエホバの証人が理解していないのであれば、またイエスが何のためにこの世に神から遣わされてきたかもわからないのだ。

エホバの証人は、ガラテヤ人への手紙を引用する。「5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。」

彼らはこの御霊の実である一つ一つの徳目を身に着けることを目標としているようなのである。その徳目が身に着くように祈りなさいというのが彼らの上部団体統治体の教育なのだ。

しかしそのような目的でここに書かれているのであろうか。あなたは、イエスキリストを信じているならば聖霊(御霊)を帯びているはずでしょう。という意味だと思う。

エホバの証人はイエス・キリストを神の子つまり神のような人という認識しかないというかそれ以上に認めようとしないというのが彼らの実際のことである。結果として聖書に書かれていることをそのままに受け取れないのだ。

聖書にイエス・キリストを信じた人がどのような変化をしたのか書かれている。使徒の働きの中で、異邦人の中で最初にイエス・キリストを信じたコルネリオとその家族がイエス・キリストを信じたときに聖霊を受けたことがどんなに大きく記されているか使徒の働き10章~15章を読んでみていただきたい。このことによってパウロ達の異邦人への伝道が進められたのだ。キリスト教の進展について誰もこのことの重要性を否定する人はいないだろう。

そして使徒の働き15:11には「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たち(異邦人)もそうなのです。」と信じることは救われるということだと言っている。

イエスはその名についているようにキリスト(人類の救い主)なのだ。エホバの証人のようにイエスを過小評価してエホバの証人の模範などというだけのことではないのだ。イエスを自分の救い主と信じた者の受ける影響は本当に驚くべきものがある。

イエスのみ名の大きさを真に知った人は「エホバの証人」ではいられないはずである。(これではやはり終われない)

このイエスを聖書に反して過小評価していることが、実はエホバの証人の存在基盤であると私は言いたいのだが、続続で書くことにしよう。


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