投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-05 22:33:52 (1905 ヒット)

イエス・キリストがゲッセマネの園で捕らえられる前に、弟子たちを集めて最後の晩餐をした。有名なレオナルドダビンチなどが名画に仕立てたその場面である。イエスはそのあと十字架にかけられた。そしてキリストを信じる者たちは、それを記念して集まってパンを裂き、ワインを飲んだ。

それはもう2000年近く前のことであるが、今でもキリスト教徒はそのことを記念してほとんどの教会では毎月、日を決めて聖餐式をする。イエスが、私たち人間の罪を背負うために十字架上に亡くなられたことを感謝するためである。

パンはイエスの肉を象徴し、ワインはイエスの血を象徴する。イエスを信じる者たちはイエスとともに死にまたその後イエスとともに生きるためである。

さてエホバの証人はこの最後の晩餐をどのようにしようとしているのかというと、イエスが最後の晩餐をしたと思われる日を年に一日を定めて、それはユダヤ歴でニサンの月の14日として記念式と名付けて晩餐式!?を行うというのだが、実際はほとんどの会衆でだれもパンもワインも食べない。ただむなしくパンを入れた器が集まった人たちの間を回されるだけである。またワインも同じようにされる。何故かというとそれらを食べるのは14万4千人で選ばれて天に行く人だけが食べたり飲んだりするというのだ。だからほとんどの人たちはその選ばれた14万4000人には入らないため見ている人たちだけなのだ。集まった何十人かの人たちの中をパンとワインの器を持った人たちが、空しく動く、本当に異様な光景が毎年繰り広げられるのだ。

イエスは、十字架にかかった時、隣りで十字架にかけられたイエスを信じた強盗は「あなたは今日私とともにパラダイスにいるであろう」と言われた。キリスト教の教会では、イエスを信じたものは、すべて聖餐式にあずかることができる。そしてイエスとともに天に行く希望があるのだ。

エホバの証人は、どんなに努力しても天に行くことはできない、哀れなことをやっているのだ。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-02 14:48:48 (550 ヒット)

エホバの証人は、聖書には「神は三位一体である」と書かれていないから、三位一体ではない、三位一体は作り事だと言っている。確かに、聖書には「神は三位一体」とは書かれていない。だからと言って「神は三位一体ではない」とは言えないでしょう。
前項で書いたようにイエスと神が、「われわれ」という自称を使っていると認めてもイエスを神と認めない人たちに対してはどのような言葉も役に立たないように感じます。

もう一箇所エホバの証人が認めているところがありますが、その個所を報告したいと思います。それはピリピ人への手紙の2章6節という有名な個所です。
『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、』(新改訳聖書)
『彼は神の形で存在していましたが、強いて取ること、つまり、自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。』(新世界訳聖書)
この聖書箇所を以て、イエスが神ではないという証拠というのです。

普通にこの箇所を読むとイエスはもともと神のかたちでおられたが、ご自身神であることを一時的に停止されて人間の姿になったというようにとれると思いますが、みなさんはどう考えるでしょうか。もっとその前後の箇所を読んでみて考えてみていただきたいと思います。新世界訳であってもそのように受け取れるはずと思います。

このように彼らは聖書に書かれていることから意味を読み取るのではなく、その解釈、「これはイエスが神ではないと言っている」という考えによって意味を考えているとしか思われないのです。そしてこの読み方が聖霊の経路であるものみの塔=統治体の解釈だというのですから。
エホバの証人の聖書の読み方のおそろしさをまた考えさせられてしまいました。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-28 10:42:46 (798 ヒット)

前回創世記の1章についてのエホバの証人の見方から神の三位一体に近づいていることを考えたが、本当にそうかということを見てみたいと思う。

前回創世記1章で、神がわれわれという呼称を用いているのを、父なる神とイエスをご自身のこととしてお考えになっていることをエホバの証人が認めていると考えた。それは三位一体の考えに似ていることから、真理に近づいていると考えたのだ。だが、もう少し考えてみると、そこまで考えていながら何故「神は三位一体の神である」と考えられないかという考えに突き当たる。

もちろん三位一体のもう一位である聖霊のこともある。彼らエホバの証人は、聖霊は意志がない、神のエネルギーと考えているから仕方がないが、(もちろん私たちは聖霊は単なる神のエネルギーではない。ご人格のある一位であると考えている。)その方は措いておいたとしても、イエスの神であることは認められるのではないかと考えたのだが、やはりそれは甘い考えと言わざるを得ない。

われわれが父なる神とイエスと見ながら、三位一体と考えられないで、イエスを神と考えることができないのであるから、ここには別の考えが入ってきている。というか、むしろその意味を考えていないということになる。

その別の考えとは何か?私の考えはものみの塔、つまり統治体の考えかたである。ものみの塔=統治体は、正しいという盲目的な信頼である。

つまりエホバの証人は、自分で考えずものみの塔を自分の考えとしているということ、カルト教団であるということに突き当たってしまう。

エホバの証人が三位一体の神に本当に近づくためには、やはりものみの塔だけを読んでいたのでは無理だと言うほかはない。ではどうすればよいか。「ものみの塔は、聖書ではない」という当たり前の現実に立ち返ることだと思う。エホバの証人は今でもものみの塔は聖書ではないと主張しているだろう。しかしその信仰の現実は「聖書よりものみの塔」、または「聖書即ものみの塔」という考えに捕らえられているということを認めなければならないと思う。そして聖書を読むことが神のことばを聞くことと改めて思い直して読んでいただきたい。

またこれも大事なことだが、エホバの証人が読んでいる聖書は、彼らの独特な訳の新世界訳という聖書であるが、全く違っている訳ではないにしても、肝心のところで自分たちに都合よく訳している聖書である。だからできれば新世界訳はやめて新改訳聖書または共同訳の聖書をぜひ読んでほしいと思います。もし新世界訳をどうしても離せないということなら、同時並行的にそれらの訳の聖書をぜひ参照してほしいと思います。(この項終わる)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-24 08:34:56 (499 ヒット)

先日エホバの証人30年という人と話をした。結局一番避けたかった三位一体について話しをすることになった。やむを得ずこちらからも三位一体を擁護することを言うことになったが、やはり彼はそのことについてなにも認めようとしなかった。

そのなかにこれは彼から言い出したことであったが、創世記一章の人間の創造の話があった。問題は神の呼称、つまりご自身のことを何と呼んでいるかということである。

神はこの世界をお創りになるとき、光から始めて5日間ですべての物をお創りになった。そして6日目に人間をお創りになったのである。1章26節「神は仰せられた。『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。…』」

このように神はご自身のことを『われわれ』と呼ばれた。この「われわれ」についてどう考えるか、いくつかの説はあるのだが、そのエホバの証人は、『イエスは初めから神といっしょにいたのだから、神エホバとイエスのことを言っているので、三位一体ではない。』というのである。

三位一体の話しの中で言われたので、ああ彼らは三位一体に反対しているのだなと私は考えたのであるが、後で考えると彼はすでに三位一体の基礎にまでたどり着いていたのだ。知らずに三位一体を認めようとしていたことになる。

なんとその人は一番反対していたイエスがエホバとともに神であることを認めてしまっているのだから。そしてそのことはエホバの証人が知らずに神に導かれていたわけである。

「われわれのかたちに人間をお造りになった」ということは、神がエホバとイエスをあらわすことを認めたということになるからである。

それでもなおエホバの証人が三位一体に反対しているというのは自分の言っていることが、どういうことを意味しているのか分からないということになるのではないだろうか。彼らエホバの証人の言っていることをよく聞いてその意味を私たちは理解して教えてやらなければならないのではないだろうか。

彼らは反対しているつもりで知らず知らずの内に真理にちかづいているのである。希望の持てることではないだろうか。(この項終わる)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-15 08:30:32 (594 ヒット)

エホバの証人は、前項に書いたように、神の赦し?を得るために、自分が聖なるものになることができない代わりに、奉仕をすればよいというように統治体からの指導を受けているようだ。

しかしこれは神の赦しを受けるための有効な手段なのだろうか。聖書に聞く限りこれは有効な手段ではない。

「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。(ローマ3:20)」とあるように神が定めた律法を行うことによっても神に義=良いことと認められないということです。

それなら奉仕によって神に義と認められるのでしょうか。それはありえないことです。

「奉仕」は、神様に感謝をあらわすことであって、それによって神様から赦していただくことではないのです。

ましてそのような奉仕によって救われるなどという考えを神の考えとして宣伝しているのであれば、それによって赦されるどころかむしろ神様から罰を受けることになってしまうのではないでしょうか。

それではどうしたら神様から赦しを受け、神様の救いに入ることができるのでしょう。

先ほどのローマ書の続きを読んでみましょう。
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21〜22)
パウロは、続けて同じことを言っています。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:23〜24)」

キリスト・イエスが、私たちが受けなければならない罪の罰を代わって受けてくださったということを認める者は赦される。そしてその結果、神からの罰を受けることはないのです。

このことは本当に信じがたいことです。でもこのことが神のみわざであり、神の恵みなのです。

それなのにエホバの証人はそのことを信じないで、また言わないで、統治体から奉仕をしなければ救われないと言われて、疲れた体に鞭打って奉仕をしているのです。これこそ『エホバの証人の悲劇』と言えるのではないでしょうか。(この項終わり)


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