投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-04 22:15:27 (245 ヒット)

聖書は神の言葉であるとエホバの証人も認めている。そのような表題の出版物も出ている。そして以前彼らはよく言っていたが、真理はだんだんに明らかになっていくと。
聖書は初めに創世記があり神が無からすべてをお創りになって、さらに人間をお創りになって、せっかく良く創っていただいたのに、人間は神に逆らい罪を犯し自ら不幸へと転がり落ちて行った。しかしそれを憐れんだ神は預言者などによって助けの手を差し伸べた。
そして最後に、人間の罪を贖うためにイエス・キリストを地上に遣わしたのだった。そしてイエスをキリストと信じる者を永遠のいのちを与えて救うとされた。

おおざっぱに言えば、このような流れが人間の歴史である。そのように聖書にも書かれている。聖書は66の書物の集まりであるが、大きく分ければ39冊の旧約聖書と27冊の新約聖書となる。その大きな違いは、新約聖書はイエス・キリストが現れてから十字架に付けられるまでとその後神のさばきと神の世界に至るまでが書かれている。そして旧約聖書はこの世が創られてからイエス・キリスト以前までが書かれている。

聖書はそのような流れに従って読まなければ、正しい理解、正確な理解は得られないことは言うまでもない。
エホバの証人は「聖書は神の言葉」と言ったり、真理だと言ったりしているのにもかかわらずそのような「時の流れ」には無関心のようである。

彼らは、エゼキエル書、詩篇、イザヤ書、福音書、パウロの手紙、など、その時の流れ、神の救いの順序には、全く考慮しない。自由自在に彼らは自分の都合の良い聖句を引用する。それで彼らは正確な理解をしなければならないとしているのだ。彼らの正確とは何であろうか。何よりも驚くのは、それを読むエホバの証人である。そのめちゃくちゃな引用を全く当たり前のこととして受け入れることである。彼らの中には、真理かどうかを判断する基準はないのだ。

つまりものみの塔ほかの彼らの団体がすることが真理なのである。分かっていたことと言えばそれまでであるが、彼らの言うこと、することはすべてそのように考えて行かなければならないことを、肝に銘じておこう。

しかしエホバの証人よ!あなたが信じている人たち(組織)は、にせ預言者であることをいい加減に気がつくべきだ。

聖書には、にせ預言者は終わりのとき、サタンと共に火と硫黄の池に投げ込まれると書かれていることはご存じだろうか。

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示録20:10)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-28 17:51:32 (218 ヒット)

羊頭狗肉とは、中国のことわざで、羊の頭を表面ではかかげて羊の肉を売るよと言っておきながら、実際には安い犬の肉を売るという卑劣な商売のことだ。ごまかしの代表例として言われ続けている。しかしそのようなことが現代においても横行している。

 もちろんこのエホバの証人の元締めである統治体も実際その通りのことをやっている。そしてエホバだ。聖書だ。と偉そうにどこででも触れ回っているのは、真に片腹痛いことだ。
 彼らの「イエス・キリストを信じる」というのは、真っ赤なにせものというと少し大げさかもしれないが、少なくとも聖書に書かれているようには信じていないのは事実だ。彼らにとって「イエス・キリスト」は、エホバの証人のひとり以外の何ものでもない。
彼らが奉仕とよぶ伝道において一般の人に渡す「ものみの塔」紙には、聖書にある「イエス・キリスト」の感動的な話しを載せて、彼ら信者たちのやっている集会のテキストには、一切イエス・キリストは登場しないのだから、全くだまし討ちも良いところなのだ。

 同様に彼らのイエス・キリストの贖いの教えに付いても、そのとおりで、イエス・キリストの十字架(もちろん、「苦しみの杭」でも差し支えない)によって、私たち人間の罪は聖書が語るようには決して赦されないというのが、彼ら自身のものみの塔の教理、いや本音の教えなのだ。そして人間はどのようにして救われるかというと、彼らの「ものみの塔」ほかの出版物を読み、彼らの指導に従って野外奉仕をして彼らのような信者を作り出すこと。そしてその奉仕を見ている「エホバ」によって救われる。永遠のいのちをいただくことができるというのだ。
 しかもその保証は聖書のどこにも書かれていない。彼らエホバの証人統治体がものみの塔ほかの書類の中で言っているだけなのだ。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-09 15:59:58 (282 ヒット)

ヨハネ14:28には、 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところ来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。』と書かれています。

エホバの証人は、「エホバはイエスより偉い」と繰り返す。そして「だからイエスよりエホバ神を信じる」と言います。

 確かに新約聖書ヨハネの福音書の14章28節には、『父はわたしよりも偉大な方だからです。』と書かれています。イエスが、父なる神をあんなによくご存じのイエスが、そう言っておられるのだから、確かにそうなのでしょう。イエスが生きておられたときに、イエスが言われたお言葉です。イエスは、人間としてこの世界に下られたのでした。そしてこのことばを発せられたときは、人間でした。天におられる父なる神は、全知全能のお方なのですから、当然、人間として来られたイエスよりも、もちろん偉大であったでしょう。

 しかし、でも父なる神は、イエスを、人間を救うためにこの世に送られたのでした。私たちが救われるためにはどうしたらよいでしょう。父なる神の方が偉大だから父なる神を信じるべきでしょうか。しかしこれは父とイエスとどちらが偉いか、偉大であるかとは関係がない。偉大な神が、罪ある人間を救うためにイエスをこの世に送られたのだ。そしてイエスはこの父なる神から人間を救うという使命を十字架上で果たされたのでした。

イエスは、ヨハネの福音書14章38節に
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」と仰っています。イエスは父の命令によって天から下って来られたのでした。
また同40節には
「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」とあって、イエスを信じる者は永遠のいのちをいただくことができるのが父なる神のみこころだと言っています。

 イエスも父なる神(エホバ)もその御心は一つであって、協力して罪ある人間を救うために働いてくださったのでした。私たちは父なる神のみこころを大事にしなくてはなりません。父なる神のみこころは、私たちがイエスを信じて父からの永遠のいのちをいただくことなのです。安心してイエス・キリストを信じることによって、神からの永遠のいのちをいただきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-06 15:51:24 (316 ヒット)

ものみの塔は、いま、福音書から離れて、またパウロからも離れて、旧約聖書、彼らの言うヘブル語聖書にもどっているようだ。
エゼキエル書、詩篇に、エホバの証人たちの目をひきつけようとしている。

救いは、イエスにしかないことはわかっているのに。
世界は、もう終わりに近づいていると言いながら、何故、救い主イエス・キリストに目を向けようとしないのだろう。今こそ私たちの贖いの小羊イエス・キリストをもっと知ろうとしないのだろう。

これが真に終わりのときであれば、イエス・キリストをもっと知らなければならない。

また巡回大会だというが、その最大のテーマは、ロトの妻だという。ついに創世記アブラハムの甥ロトの妻は堕落した町から逃げるとき、天使の振り返ってはならないという忠告に従わずに、振り返って、塩の柱になってしまった故事を学ばせるのが彼らの思惑だ。

 危険だ!彼らは、ものみの塔から、その集会から、逃がさないようにしようとしているのだ!

エホバの証人よ!まだ間に合う!!イエス・キリストの救いにもどろう。

この方(イエス・キリスト)以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-16 09:53:57 (289 ヒット)

2.「奉仕」をすれば救われますか。
ところで、彼らエホバの証人は、その行いを持っているというのだが、・・・彼らの行いというのは、言うところの「奉仕」を指しているのだ。そして彼らの中では、この「奉仕」ができるようになると、信仰があるとみなされるらしい。
ということを考えてみると、彼らの中ではむしろ信仰があれば行いがあるということではなく、行いがあれば信仰があるとみなすということになり、ヤコブの手紙とは全く違う結論になっている。

しかし彼らエホバの証人の行いとは、この「奉仕」という伝道活動のことである。この奉仕活動は、ヤコブにとって、いや、神に対する「奉仕」となるのであろうか。
もちろん、聖書を一行でなく、聖書全体から理解しているエホバの証人であり統治体だというから、よく読んでいると思うが、ヤコブの手紙の少し離れた箇所を読むと、伝道活動は、ヤコブの「行い」のうちに入っていない。
このように書いてあります。
「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」(ヤコブ2:1)
ヤコブは、イエス・キリストを信じているなら、えこひいきをしてはいけない、というのです。そして「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたの行いは立派です。」(2:8)とヤコブは続けます。
それならヤコブは、律法の行いを守ることによって救われる、神の罰から逃れられるというのでしょうか。
しかしヤコブは「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」(2:10)といい、「なぜなら、『姦淫をしてはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になったのです。」(2:11)と続けます。
つまりヤコブは、人間は律法の行いによっては決して救われることができないことを認めているのです。なぜなら、人間はすべての律法を守ることはできないから。
では、何によって?すぐそのあとに書かれている「自由の律法によって」はイエス・キリストのことだとある注解者は言います。
とすれば、ヤコブもパウロと同じ結論であることが分かります。

確かに「信仰」が本物だったとしても、頭の中だけのものであれば、何の役にもたたないでしょう。その信仰は偽物と言ってよいのではないでしょうか。真の「信仰」であれば、必ず行いになって表れるはずだからです。

しかしその信仰による「行い」は、エホバの証人のいう「奉仕」ではないことは明らかです。「彼らの奉仕」は、パウロのしたようなイエス・キリストを宣べ伝えることではありません。もちろんエホバの証人がパウロのようにイエス・キリストを宣べ伝えたとしてもそれで罪赦され神の国に入ることはできないでしょうが。
エホバの証人がその組織の命令に従って、「奉仕」をしてエホバのみ名を宣明するということをしたとしても、それは神の国から遠く離れている奉仕だということを認識しなければならないでしょう。聖書に書かれていない偽予言団体のための勝手な奉仕だからである。(この項終わり)


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