投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-17 11:11:36 (78 ヒット)

イエス・キリストの福音書を読んでいると、「信仰」の働きがどんなに大きなことかを思わせられる。イエスに信仰を持った人たちにどんなに素晴らしいことが起きたであろうか。
たとえば、マルコの福音書5〜6章などを読んでみると非常によく分かる。イエスを信じた人すべての人たちの病が癒されるのである。
しかし、驚いたことに、この6章6節には、イエスを信じなかった人たちのことが書かれている。イエスを信じなかった人たちは、イエスの郷里の、つまり出身地の人たちであった。イエスを昔から知っている、いや知っていると思っていた人たちであった。その人たちにどんなことが起こったか、みてみよう。

マルコ6:1~5節を引用してみる。
『イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。
この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
それで、何人かの病人に手を置いて癒されたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。
イエスは、彼らの不信仰に驚かれた。(新改訳2017)』
イエスは人にも自然にも力ある方であったが、ここから読む限り、イエスに対する信仰が、イエスが奇跡を行なうのに何らかの力となっているに違いない。イエスは、ご自身への人の信仰がない場合には、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。と、聖書に書かれているのである。イエスは、そこにおいて奇跡を行なうことができなかった。
これは、奇跡を行なうことに限られることなのであろうか。イエスの信仰による救いにも、当然関係があると言って良いのではないだろうか。
イエスの十字架の後、パウロやペテロ、ヨハネが説いたイエスの信仰による救いについても少なからず言えることではないかと思う。
このことを同列に比較することはできないとは思うが、イエスが罪びとを救う力があるとしてもイエスを信じない人に対してはその御力を働かせることはできない、つまり「救われない」ということではないか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-14 22:27:53 (89 ヒット)

ヨハネ3章16節は、聖書を信じる者にとって、「一行聖書」と言われているくらいに、有名な聖句であると前回お話しした。もう一度新共同訳を引用してみる。
(新共同訳)
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神がこの人間世界を愛するがゆえに、その独り子イエス・キリストをこの世に与えて、イエス・キリストを信じる者は、ひとりも滅びないで永遠のいのちを得ることができる、というのがこの聖句の意味である。また「一行聖書」と言われるわけも、このことを聖書全体が言っているからであると思われる。
 つまり、イエス・キリストを信じることによって、人々が救われるということだ。
しかし新世界訳の訳は、そこをひっくり返して、だれでも「彼に信仰を働かせる」と訳すことによって、「信仰を働かせる」という訳をすることにより、本来信じるの強調と見られる意味を、「働かせる」に引っ掛けて、行いをすることにまで無理やり意味を変えてしまったことによって、ついに誤訳と言わなければならない領域に踏み込んでしまったのであった。

参考「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。」(ヨハネ3:16新世界訳)

もちろんこの誤訳は、自然にとか、うっかりとかいうものではなく、「信じる」を「信仰を働かせる」と訳したときから、その目的は決定していたと言えるだろう。

つまり、彼らエホバの証人統治体の目的は、エホバの証人に1軒1軒訪問する奉仕をさせて、ものみの塔の信者を増やすためなのである。

 このことに私たちが気がついたとき、私たちはものみの塔エホバの証人統治体のおそろしい目的に、否応なく気づかされるのである。

ヨハネ3章16節が、「一行聖書」と言われているほど、聖書の真理を語っていると初めのところで述べたのだが、その意味を変えて、信じることから行動にしてしまうことによって彼らエホバの証人は果てしない奉仕という無間地獄に落とされてしまうことになるのだ。彼らは聖書を、つまりヨハネ3章16節を読んでも、イエスを信じるという神の国の入り口を通り過ぎてしまうことになる。そして彼らは統治体の意を汲んだ長老たちの指導の下に、信じるよりも信仰を働かせること、つまり永遠のいのちの入り口を横目に見ながら、奉仕に駆け回ることになるのだ。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-05 14:10:34 (141 ヒット)

ヨハネ3章16節
(新世界訳)
15 それは,彼を信じる者がみな永遠の命を持つためです。
16 「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。
(新共同訳)
15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネの福音書3章16節は、実は、聖書を信じる者の間では非常に大事な聖句とされている。とても大事で、このことばは、聖書の中の聖書と言われているくらいなのである。上にかかげたのは、エホバの証人が常に用いる新世界訳聖書とカトリックとプロテスタントの教会が共同で訳した新共同訳聖書の同じ個所である。

この個所をしばらく比べてみていただきたい。非常に似ているが、ちょっとちがっているところが目につくと思う。15節はほぼ変わりがないと思う。違っているのは、16節である。新世界訳では、「だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで」と訳されているが、新共同訳では「独り子を信じる者が一人も滅びないで」と訳されている。新世界訳は(彼に信仰を働かせる者)となっている。共同訳の(独り子を信じる者)よりも丁寧に訳されているように見える。共同訳の「信じる」を「信仰を働かせる」と翻訳している。

意味としては、変化がないように思われるのだが、エホバの証人の解釈は違うのである。この「信仰を働かせる」は、「信じて行動をおこす」ものという解釈なのである。彼らエホバの証人はこの「信じる」という言葉にこのような意味を持たせることによって、驚くことに、奉仕をしているのはエホバの証人だけなのだから、「滅ぼされない」のは、つまり、救われるのは、エホバの証人だけだと主張するのである。

はたしてこの主張は正しいのだろうか。
まずこの翻訳は正しいのだろうか。この「信じる」という言葉は、聖書本文を見ると3章の15節と16節に出てくるが、まったく同じことばなのであるが、16節だけは、「信仰を働かせる」と訳している。3章の15節と16節は、どこも変わったところはないのである。このように違う訳になる理由はまったくない。参考までに、口語訳、新改訳・新改訳2017の訳文も見てほしい。これらの訳はまったく変わらない。
またさらに、この訳文「信仰を働かせる」は、先に示したように、信仰をもって行動すると訳すことは、不可能である。普通に日本語を学んだ人であれば、「信仰を働かせる」をどう読んでも、(強く信じる)または(自ら信じようとする)などとしか意味を取ることはできないだろう。彼らエホバの証人は、統治体の指令によって、「信仰をもって働く」などと無理に読み替えているのであろう。まさにめちゃくちゃな読み方としか考えられない。
さて、それではこの読み方にしたがって、エホバの証人のこの聖句の読み方に従って行動すなわち奉仕をしたとき、真に神のみこころに従っていると言えるのだろうか。
この聖句は、エホバの証人の読み方ではなく、普通に日本語を読む読み方で読んでみるとどうなるのだろうか。他の読み方もほとんど変わりないのだが、口語訳の訳で読んでみよう。
15節:「彼を」…つまりイエスを信じる者は、すべて永遠のいのちを得る、つまり救われると書かれている。
16節:ここには15節の理由が書かれているようである。つまり、神は地上の人間が堕落しているために、神の国におられるご自身の独り子を、地上に送って罪ある人間の代わりに独り子を罰するほどに人間を愛してくださったのである。それは御子イエス・キリストがそのために死んでくださったことを信じる人はひとりも滅びないで、永遠のいのちをいただけるのである。
改めてその意味を解説するほど、難しく書かれているわけではない。もちろんこの聖句の指し示す救いの意味は、ここに何行かで解説できるほど易しくはないと思うが、決して行動つまりエホバの証人の奉仕をすることによって永遠のいのちが得られるとは読めないと思う。つまり、永遠のいのちを得るためには神のみ子イエスを信じることによるということであり、それ以外に永遠のいのちをいただく方法はない。
信仰による救いを支持する聖句は新約聖書の中に多々あるが、2,3挙げてみよう。
・しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ2:16)
・事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(汽灰螢鵐1:21)
「信仰によって救われる」としか読めないような聖句を、無理やり奉仕に結びつけようとするエホバの証人統治体の誤導に得々として従っている勤勉なエホバの証人の信仰を心から危惧する。このような指導の下に終わりを迎え神のさばきに会うとしたら…と考えるからである。一刻も早くしっかりと聖書を読んでイエス・キリストの救いに与ることを祈ります。(この項終わり)

(口語訳)
15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(新改訳・新改訳2017)
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-08 16:08:58 (181 ヒット)

去年の春ごろ、妻がスーパーからフリージヤの鉢を買ってきた。
フリージヤをご存じだろうか。葉は小さなアヤメのようにナイフの刃を重ねたようである。花は黄色い小さな花が1列になって咲く。その花はとても良い香りがするのである。小さな花は、マンションの小さな花壇を少しの間賑わせてくれた結構長持ちのする花であったが、2,3か月で枯れてしまった。その後そのような花の運命であるかのように枯れたまま、鉢の土もカラカラになって、花壇の隅に捨てられていた。私は秋に向かう頃、このままではこの花もあんまりひどいなと思い、小さな鉢を買い、球根になっていたこのフリージヤを並べて土をかけて植えてみた。その時は、まあ、ひとつでも葉っぱが出てくれば良いかなと思っていたのだ。
 しかし、秋を越え、冬もまだ終わりには程遠いときであった。その鉢からポツンと一つ、緑の芽が出て来た。 ああよかった。この花も死なずに生きていてくれた、花が終わったら知らぬ顔の冷たい買い主の仕打ちにもかかわらず、よく生きていてくれた、とおもった。しかし、驚きはそれでは終わらなかった。ひとつ芽が出たと思ってみていると、この花は次々と芽を出して、小さな鉢いっぱいに、植えたモノが全部芽を出したのだ。
「ああ、よかった」神はフリージヤを見捨てられなかった。いや、私を見捨てたまわなかったという感じである。

 それだけではない、芽が出て小さなナイフ状の葉が次々に出てきた。約10個くらいが小さな鉢に勢ぞろいをした。そしてそれぞれがそれなりに大きな葉を伸ばしてきた。
葉っぱが出ると次は花、いやつぼみである。
この花はいつごろ咲くのだろうか。まだ寒い冬の最中からつぼみへの期待が高まった。まったく人間とは、図々しいものである。葉っぱが出れば良いと思っていた私たちが今度はつぼみを期待している。
すると春も近いこのころにつぼみが見えた。
ナイフの刃が重なっているようなフリージヤの株からどのようにつぼみが出てくるのだろう。神の御業に対する期待が高まった。するとあるときその重なっている葉っぱの中心部分の上部の中心部分につぼみのような影が薄くポツポツと見えたのである。
ああ、ひょっとするとこれがつぼみかと思っていると、そのつぼみの影のようなものがナイフのような葉っぱの間から「私ですか」というように顔を出してきたのだ。
それから5,6株のフリージヤからそのように次々と顔を出したのである。そして間もなく最初から居たのだというようにつぼみは次々と大きくふくらんでもうすぐに黄色い花が咲こうとしている。ああ、神の御業の素晴らしさよ。私の胸は膨らんでいる。(終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-13 17:12:37 (239 ヒット)

聖書は、神の書かれた本と「ものみの塔」は言っている。それは良いだろう。そして実際に聖書を読むと不思議なことがたくさん書かれている。それは、神は全知全能の方であり、神のみこころやみわざは、人知を超えたものだからだ。
 しかし、「ものみの塔」は、過去のこととして気楽に物語る。旧約聖書の中の出来事は、以前の物語、昔の物語として片づけることができる。
しかし、現代に通じる「使徒の働き」以降の話しについては、神の働きである聖霊の物語となる。(使徒2:1以降)彼らはこの現代の事実につながるお話をやはり過去のこととして閉じ込めておきたいようである。彼らJW統治体は、聖霊の働きを過去の物語に閉じ込めて、それらを人間自身の努力におきかえたいようである。

 神は、「求めよ、そうすれば与えられる」(マタイ7:7)と聖書で言われた。
聖書によれば、誰でも求めれば与えられるもの、それは聖霊ではないのか。もしそうなら、聖霊は誰にも与えられ、神のみこころは理解できるはずである。
しかしものみの塔は、いや、JW統治体は、自らを聖霊の経路と規定し、聖書の読み方をコントロールしている。そして無知で無邪気?なエホバの証人にそのように教育している。
 彼らJW統治体は、何をしたのか。神に直接聖霊を求めないようにしたのだ。そのようにして神の聖霊つまり神と、個人つまりエホバの証人との連絡を遮断しているのだ。
彼らは神との経路を遮断して真の聖霊との経路を塞いだ。そして彼らのにせ経路から彼ら統治体の指令命令を神の命令として聞くようにしたのだ。

 しかし、実際、神の直接の経路である聖霊との連絡は、閉ざされてはいない。神の御言葉はいまも残っている。
イエス・キリストは言われる。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
そのとおり、イエスが、父への道であり、イエスを通してでなければ、父のみもとに行くことはできない。
 逆に言えば、イエスを通してであれば、だれでも父のみもとに行くことはできるのだ。

エホバの証人は、この点で大間違いをしている。エホバの証人は、父のみもとに行くのは、組織、つまり統治体を通してでなければ、父のみもとに行くことはできないと思っているのではないか。JW統治体は、聖霊の経路だなどと言って、神の御言葉=聖書のみ言葉を忘れさせて、統治体を向かせようとしてる。彼らの集会、大会、ものみの塔、あらゆる出版物を通してでなければ、神のみもとに行けないとして、エホバの証人を正しい道から遠ざけているのだ。
騙されてはいけない。神への道はまだイエスを通して開かれているのだ。


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