投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-29 00:16:16 (218 ヒット)

神は、原始、ことばをもってこの世界を創られた。聖書創世記を始めから読んでみられるとすぐに分かる。創世記1:3 神は仰せられた「光があれ」すると光があった。
1:6神は仰せられた。「大空が水のただなかにあれ。水と水の間に区別があれ。」
と、神は6日間でことばによって、この世界をお創りになった。

 また、新約聖書(ギリシャ語聖書)にあってもそのようだ。ヨハネの福音書を見ると、
1章1節には、『初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは、神であった』とある。この「ことば」はイエス・キリストのことである。イエスは、その存在が神のことばであり、また神なのであった。

 聖書は、神の言葉といわれているが、聖書が「ことば」をどれだけ大切にしているかハッキリと分かるであろう。しかしエホバの証人は、いや、統治体は、その神の言葉である聖書を237箇所も変更、訂正した。そして彼らの言うには、神の御名を復元したと。しかし彼らは神の言葉に対して明らかに反旗を翻したのである。

 すなわち神の呼び名またはイエスの呼び名である「主」を、彼らの専売特許であるエホバに変更したのだ。しかもどの部分を変更したかを聖書の付録に掲載しているのだ。これは、聖書が神の言葉とほんとうに言っているのなら、神に対する侮辱であると彼ら自身も考えるのが当然ではないか。もちろん我らもそう考える。まったく「聖書は神の言葉」と広言している団体のすることとは思えない。

 さらに聖書の最後の書黙示録(啓示)の最後の章を見ると、22章18節「私はこの書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もしこれに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。またこの預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神はこの書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」と書かれている。このことばは、聖書の最後に書かれているので、この黙示録(啓示)についてだけではなく、この新旧約聖書のすべてについてのことばと言っても、間違っていないだろうと言われている。

 彼らエホバの証人はこの呪いをかけられているのである。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-09 15:55:27 (208 ヒット)

また、今申し上げたのは、聖書は神の言葉で、神のご意志が書かれているということだ。そしてエホバの証人も、そのような書籍があるし、そのように言っているようだ。

しかし奇妙なのは、そのように神の御心が示されているにもかかわらず、違う方面から、「そうではない、このように読むべきだ。」と神の御言葉である聖書を上回る声がどこからか聞こえてくることだ。

ハッキリ言えば、『神は聖書によって「白」と言われているが、実はそれは「黒」と読むべきなのだ。』とどこか遠いところから、言ってくる。そしてエホバの証人にはその声が聖書の声=神の声に聞こえてしまっているらしい。

さらに聖書にしても、彼らは新世界訳聖書という独自の訳の聖書を用いるのだが、こともあろうに、彼らエホバの証人は、その神のことばである聖書に注文をつけるのだ。聖書に『主』と書かれているところに、エホバという名前を当てるのだ。そしてそれを神の名を復活した(いや発掘だったか)と言い、聖書の裏面に何百という箇所の表をさえつけているのだ。ひょっとすると彼らものみの塔の出版者たちは神よりも偉い、と思っているのかもしれない。

エホバの証人は、神よりも偉い人たちによって導かれている!ということに気がつかなければならないだろう。
そもそも「神よりも偉い人」が存在しているのだろうか?聖書には何と書かれているのであろうか。そういう人はどのような人たちなのであろうか。エホバの証人の「真の神」への信仰が問われているのである。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-05 07:35:39 (154 ヒット)

前項では、だいぶ長く書いてしまったが、私の言いたいことはただ一つで、ある人が考えるような仕方で聖書は好き勝手に解釈することはできないということだ。

 なぜなら、神が人間にみこころ(ご意志)を伝えるのに、人間のことばを使われたということがその理由だ。神が、人間のことばを用いることは人間の考え方をもちろん知っておられ、単語の意味も文法もどのように理解されるかも知って、すべてのことを考えられた結果だと思うからだ。
 逆に言えば、神の御心が聖書に表されているのであれば、用いられた単語の意味も文法も人間が理解するように理解しても良いということだし、そのようにしなければ神の御心は理解できないということでしょう。

 1つの文書が聖書であるならば、それを理解するには、その最初から最後までを用いられるということである。だから、どこかの団体がするように、1つの文章を取り出して、それが御心だということはできないことは言うまでもない。

さらに言えば、聖霊によって正しく読むならば、その文章全体の意味とまったく異なる解釈になることは絶対にならないだろうし、全く異なる解釈をすることは、間違った読み方であるともいえるだろう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-02 17:55:16 (162 ヒット)

「聖書は、神の言葉」とエホバの証人はいつも言っているし、またそのような出版物もある。エホバの証人は、心からそのように思いまた信じているようだ。
そして、さらに彼らは神の言葉すなわち聖書を正しく読まなければならないとも信じているようだ。その固い信仰に水を差すわけではないが、しかし彼らはほんとうに聖書を神の言葉として正しく理解しているのであろうか。彼らの言うことを聞き聖書の引用の仕方を聞いていると、それはとても疑わしいと言わざるを得ない。

 まず聖書はどのような意味で神の言葉なのだろうか。
聖書は神の言葉と言っても人間のことばで書かれている。旧約聖書は、ヘブル語で書かれたし、新約聖書は、ギリシャ語で書かれた。そしてヘブル語も、ギリシャ語も、人間のことばである。神は、ユダヤ人が話したり書いたりしているヘブル語や、ギリシャ人が用いているギリシャ語を用いて、ご自身のご意志を伝えようとされた。もちろん、聖書として文字にする前に、音声を用いてかまたは霊感を用いられたか分からないが、ご自身の意志を伝えられた。それを聞いた人は、自分の分かる言葉にして筆記した。そして人が読める物となった。

 神のご意志(御心)が文字にされたとき、それを人は聖書と呼んだ。もちろん、この聖書は神の聖霊がはたらかれた。では、聖書を読んで神のご意志(御心)を理解しようとする場合、どうすれば良いのだろう。この聖書は神が聖霊によって書かせたものだから人間が意味する言葉をはなれた意味を表すものであろうか。

 神は、人間の使っていることばを用いて、ご自身のご意志(御心)を表されたのだ。人間のことばによってご自身の聖なる御心を書き記されたことを忘れてはならないと思う。

 ということを前提にすれば、聖書は神の言葉だからすべてが神の用いる特別な意味に使われているわけではない。もしそのようなことを神が意図されたのであれば、当然そのような注釈がつくはずである。神はご自身の御心が人間に分かるように人間の言葉を用いられたのだから、最大限人間に理解できるように書かれたはずである。
例えば、聖書に「良い」と書かれていれば、神の用いる意味で「良い」というだけでなく、それは人間の用いる意味でも「良い」という意味である。このことがなければ聖書を読み理解することはできない。

 それでは聖霊によって書かれたということから、聖霊によって読むということはどのようにすればよいのであろうか。
聖書が以上のように、人間の言葉によって書かれたとしても、それでこの聖書つまり神の言葉がすべて理解できるわけではない。そのことは聖書を読んでいて誰しも経験することだ。
聖書には、神の御言葉が書かれているのだから、すべてを理解することができないのは当然のことだ。その神の御言葉を理解するために、聖霊の働きを期待しなければならない。
 そこに聖霊の働きがある。イエス・キリストは、十字架にかかられる前に、そのように言われた。ヨハネ16:7〜「わたしが去っていくことはあなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたの所へ来ないからです。しかしもし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。・・・・」聖書には聖霊によって教えていただかなければならないところがあるのだ。
正しく理解するとは、そういうことである。だが決して聖書の書かれた人間の言葉の意味をはなれて勝手な解釈をしても良いということはない。ペテロ第2の手紙1:20には「なぜなら、(聖書の)預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあります。

 しかしエホバの証人の「正しい理解」とは、聖書を「ものみの塔」に書かれた聖書解釈を無条件で受け入れることをいうのである。それは書かれた聖書の人間の言葉の意味を全く違った意味に解釈したり、逆に全く無視したりしている場合がある。ものみの塔による聖書理解とは、彼ら統治体の考えるように聖書を受け取ることなのである。これが彼らの教えとキリスト教の解釈とが全くかけ離れてしまう理由なのである。

 つまり彼らエホバの証人は、聖書の解釈を、聖霊による解釈という名のもとに彼ら(ものみの塔編集者)の意図するように解釈をすることなのだ。それは決してあらゆる人を救いに入れるという神の御心=ご意志とはまったく関係ない解釈なのだ。もちろんエホバの証人の救いとも全く関係がない。
それにもかかわらずエホバの証人は、彼らの解釈が彼らの救いに欠くべからざるものと思い込んでいる。そしてものみの塔に書かれている聖書の解釈は彼らの大事な組織にとっての専売特許だと思い込んでいるのだ。そのところが、エホバの証人の悲劇というべきところなのであろう。

 ペテロの手紙に書かれているように、聖書はよく読めば分かるものなのだ。(「その(パウロの)手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書のほかの箇所の場合でもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」そして分からない時には、イエスがおっしゃったように、聖霊がそれを教えてくださることを期待するべきです。

 もちろん、聖書が書かれたときと現代では何百年、または何千年も隔たっていることを考えれば、常識的に、その当時はどのような習慣があったのか、どのようなことが考えられていたのかも学ばなければならないでしょう。その後でもわからない時には、何度でも聖霊の助けを願わなければならないでしょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-12 17:37:45 (175 ヒット)

ある人たちは、年に1度、「主の記念式」と言って、食事をしないために集まっている。まったく不思議なことをやる宗教団体もあるものだ。

彼らは、年に一度、イエスが命じたこととして、食事をするために集まってくる。それも自分にとって最上の装いをして。お祝い気分なのである。それがまたおかしい。

新約聖書には、イエスが十字架に付けられる直前に弟子たちを集めて食事をしたことが記されている。一番古い記録として第汽灰螢鵐反佑悗亮蟷罍隠云錬横~26にある。これがイエス・キリストの有名な最後の晩餐と言われる記事である。
キリスト教の教会では聖餐式の度に式文として読まれる記事なので、ここにご紹介しよう。
すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための私のからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えてこれを行いなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

そしてほとんどのキリスト教の教会では、月に1度か2度、この聖餐の式を行っている。牧師はこの式文を唱えながら、集まっている信徒たちにパンを裂いて回し、ぶどう酒またはぶどうジュースを配って共にいただく。このような聖餐式は主イエスの記念なのだから、本当はもっと頻繁に聖餐式を行う望みはあるが、諸般の事情によって月1度くらい行う教会が多い。

しかし、ここに奇妙な宗教団体がある。聖書を神のことばと信じているというが、年に1度しかこの聖餐を行わない。そしてキリスト教会と同じように上記の式文を唱えて、パンを配るのだが、パンをとって食べる者も一人もいない。またぶどう酒またはぶどうジュースを配るのだが、誰も飲まないのだ。
「これは私の肉である。このパンを食べなさい」とイエスがおっしゃっているのに、多くの人が集まって、パンをその人たちに回しながら、誰も食べないのだ。また聖書には、続けてイエスがぶどう酒を示して「これは私の血である。これを飲みなさい」と言って、集まっている多くの人に回すのであるが、誰も飲まない。

これはまさにおかしい。この人たちは自分たちのことを「エホバの証人」と言っている。彼らは、それでいて、自分たちほど聖書=神の言葉に従っている者はいないと言っているのだ。また、イエスを信じていると称して、自分のことをクリスチャンとも言っているのだから。日本にいる、多くの人たちがこのような奇妙なことをしているのだ。

彼らがイエス・キリストを信じているというなら、イエスの言葉に従うべきだろう。イエスは、父なる神に聞かずにはことばを話さないと言っておられるのだから。もしこのイエスの言葉にしたがわないのであれば、父なる神=彼らのエホバの命令にも従わないことになってしまうのだ。重大な命令違反=罪ではないのだろうか。

しかし、聞いてみると、パンを食べぶどう酒を飲むことができるのは、天に行く14万4千人だけだという。しかし、誰がそんなことを決めたのであろうか。
彼らは、イエスの命令=父の命令よりも強い命令を誰かから受けているのであろうか。
つまり、そのことを決めたのはものみの塔を出版している統治体以外にはない。つまり、彼らは、イエスや父なる神よりも強い命令を受けている人たちなのだ。神以外のものに従う者は、偶像礼拝者である。
はしなくも、ここでもそのことが明らかになったのである。(この項おわり)


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