投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-06 18:06:08 (234 ヒット)

JWエホバの証人は、最近なんと創世記1章に書かれている神の6日間の創造を否定するようになった。
驚くべきことを自ら明らかにしてきている。エホバの証人という名前は、聖書にある神のわざの証人となることではなかったのか。確かに神のわざについてはっきりとしないことはあるかもしれない。しかしそれを科学の名のもとに否定することは、自分の存在価値を否定することではないのか。またむしろそのことに気がつかないことに非常な恐ろしさを感じるのはわたしだけであろうか。それでもなおエホバの証人を名乗って恥としないのは、自ら名乗っている「エホバの証人」の意味がまったく分からないのではないか。

聖霊によって書かれた聖書を、聖霊の経路!であるJWが否定する矛盾について書きたいと思う。
聖霊を受けた人たちと主張するJWが、聖霊を受けた人たちによって書かれた聖書を否定するものだろうか。 それともJWが受けた聖霊は、聖書を書いた人たちが受けた聖霊と違うものだろうか。
いや、聖書には聖霊は神が変わらないと同様にいつまでも変わらないと書かれている。では、何故彼らJW統治体は聖書に書かれていることを否定するのだろうか。つまり彼らJW統治体が聖霊を受けた、または受けていると主張していることに疑問符をつけなければならないということだろう。

 それで、私たちと同じ異邦人たちはどのように聖霊の経験をしたのだろうか。聖書がどう言っているか聖書を読んでみたい。不思議なことに、このような記事は「使徒の働き」に集中している。イエスはわたしが去った後、もう一人の助け主聖霊をあなたがたに送ります。と福音書で言われているので当然だろうが。

 まずペテロの経験を読んでみる。ペテロはユダヤ人で、異邦人に対する伝道は異邦人は汚れたものと考えていてできない。そこで神は夢によってペテロを説得する。律法で食べてはいけないとされている汚れた動物たちを天から示されて、これを食べよと命令する。ペテロが拒否すると、神は、「神がきよめたものを、きよくないと言ってはならない。」と言われた。ペテロが異邦人に対する伝道を断らせないためである。
 そこへ異邦人ローマの百人隊長であるコルネリオからの使いがやってくる。そしてペテロと仲間たちはコルネリオの家に行ってイエスを宣べ伝える。
「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にお下りになったのです。」(使徒11:15)ペテロは、神は異邦人でもイエスを信じる者には聖霊が与えられることに気がつくのだ。
 ここで、よくよく考えてみよう。聖霊を与えたのは、イエスを宣べ伝えたペテロだろうか。
エホバの証人は、ペテロや主の兄弟ヤコブなど当時エルサレム教会にいた使徒たちが、エホバの証人統治体だと主張している。もし仮に百歩も千歩もゆずってそうだと仮定してみてもこのローマ人の百人隊長コルネリオに聖霊を下されたのはペテロではない。ということは、エホバの証人統治体が聖霊を下したのではないということだ。ペテロは、その後の11章17節でこう言っている。
「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
 まして、何故偽預言者団体であるエホバの証人統治体が、神の聖霊を与える聖霊の経路であるなどと主帳できるのだろうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-18 10:43:21 (376 ヒット)

・旧約における血の問題
ただし肉は、そのいのちである血のままで食べてはならない。(創世記9:3、4)
JW統治体は、これらの記事から輸血は禁止すべきだと結論した。

しかし、この律法における「血」とは、羊など家畜の血である。だから、いつも食べる可能性のある家畜の肉に含まれている血を指して食べてはいけないと言ったので、人の血は初めから考慮に入れていなかったはずである。もちろん人の血を食べるという習慣はイスラエルに無いことは当然である。だから、「輸血」と律法の「血を食べてはならない」とは、関係がないはずなのだが、JW統治体はさらに、「食べる」ではなく血を体に取り入れると律法を捻じ曲げて、「輸血」を「血を食べること」と無理やり曲解して禁止するとした。だから聖書的には初めから輸血は律法とは関係がなかったのだ。

しかし、百歩譲って(本来ゆずってはいけないところであるが、)彼らが言うように、この禁止命令を輸血にも適用できるとして考えてみよう。実際に、JWはこの規定に縛られているのだから仕方がない。
創世記やレビ記の「血を食べてはならない」とは、現在にも適用しなければならないものだろうか。
その家畜の血は、なぜ食べてはいけないとされたのであろうか。創世記、レビ記において、神を礼拝する儀式に血によって清めることは普通であった。創世記、レビ記において、常に行われることであった。「肉の命は血にある」と言われ、いのちを創られたのは神であるので、礼拝場所を清めるためにその血を用いられたのだと思われる。そしてそのために血を用いるために、血を食べてはならないとされたのではないか。
しかし、イエス・キリストが十字架にかかられて真のきよめが行なわれたとき、家畜の血による清めは必要がなくなった。
・新約における血の問題
新約聖書にも、血に関する勧めが書かれている。そしてそれをJW統治体は、「血を食べてはならない」の根拠として用いている。
下記の新約聖書の記事を見てみよう。
また使徒の働き15:28の記事に「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです」という命令、勧告がある。これは、使徒時代のエルサレム教会の中心人物主の兄弟ヤコブがエルサレム会議の結果をまとめたものであった。これは使徒の働き15章に書かれているとおり、異邦人のイエスを信じる人たちはモーセの律法を守らなければならないのだろうかという会議であった。
この問題の発端は、アンテオケ教会に来たユダヤ人信者が、「イエスを信じるだけではだめで、モーセの律法をも守らなければならない」と主張した点にあった。(使徒15章)パウロはイエス・キリストを信じて救われるためにはモーセの律法をも守らなければならないか。それはつまり、ただイエスを信じるだけの者たちを信者と認めるかということであった。議論は、大いに紛糾したようであった。
その結果、ペテロのコルネリオというローマの百人隊長の回心の実例などから、イエスを信じることで救われる。そして当然キリストの信者と認めることにした。しかし「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれている」(使徒15:21)ことから、その人たちを考慮して4つのことつまり「ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血を避けるように彼らに書き送るべきです。(同20節)
 そのため、読めば分かるように、この「血を避けなさい」という命令、いや、勧告は、それを破ったら死ななければならないという命令では決してないのである。

ものみの塔JW統治体は、イエス・キリストの恵みを信じないで、なにか旧約の時代に帰ったもののようにこの中の勧めのひとつである「血を避けるように」を、あたかもこの「命令」を破ったら断ち切られるとした。この時点で彼らはイエス・キリストの恵みを無視して、神(エホバ)の命令に逆らう者となったと言えないだろうか。

「口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、それが人を汚すのです。」(マタイ15:11)
イエスは言われた。「あなたがたもまだ分からないのですか。口から入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。」(マタイ15:16〜17)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-04 21:13:07 (381 ヒット)

私は、輸血を拒否するという、死に至るものみの塔エホバの証人の教理に大きな疑問を感じたのと同時に、この大ちゃんのお父さんの取った行動にもなにかすっきりしないものが感じられた。なぜ自分でかわいい息子大ちゃんの治療について、この方が属していたという団体の長老に許可を受けなければならないのか。信仰とは、そのようなものなのだろうか。

ものみの塔エホバの証人という宗教団体は、聖書に従う宗教だと聞いていたが、この長老は聖書よりもえらいのだろうか。非常に単純で素朴な疑問であるかもしれない。しかしこの新聞記事を読んだり、たけしのテレビドラマを見たりするたびにその単純で素朴な疑問が、私のあたまをよぎった。輸血をするということに、そんなに神に逆らう要素があるのだろうかという疑問である。信仰とは、個人的なものという考えは間違いだったのだろうか。
その後、何年も経過するが、少し変更はあったけれど、その素朴な考えは変わっていないと思う。また彼らの輸血拒否の教義について聖書的根拠を探って、全くそのような教えは聖書に従っていないことを知ることができたのは幸いであったと思う。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-02 21:03:55 (266 ヒット)

「ここで有名になったのは、エホバの証人という新興宗教の長老が輸血を許可しなかったことに対する賛否!?でした。」

と書いたが、実はこの事件で問題になったのは、この10歳の大ちゃんの臨終の際にもらした言葉であったと思う。死ぬ前に、大ちゃんが「生きたい」と言ったかどうかについてではなかったかと思う
 しかし私は、その事実があったかなかったかが問題かもしれないが、10歳の男の子がそう言っても言わなくても、神から授かった命を大切にしてあげるのは、両親として当然の務めであろう。

 大ちゃんの両親は、エホバの証人の研究生だということで、大ちゃんを助けたくて、彼らが属していたエホバの証人の会衆の長老に何度も何度も「よい」という答えがもらいたくて断られていたこと、それ以上の問題はないだろう。彼らの信じているエホバの証人の教理がそのようになっていることが、最も問題ではなかったのか。しかし、そのことはあまり問題にならなかったような気がするのは、非常に残念だった。

 最近でこそあまり問題にならないようだけれど、いまだにエホバの証人の輸血拒否の教理は続いている。あまり社会的問題にならないのは、「全血輸血はダメだが、部分輸血ならオーケー」というこの教理のごまかしによって、問題が先鋭化しないためだろう。また受け入れる医者の技術的な進歩もあるかもしれない。しかしそれにしても、彼らの輸血拒否の教理に対する恐怖は依然としてあるのだ。現実にエホバの証人は、この無法な教理によって交通事故やその他の事故を非常に恐怖しながら生活しているのである。(続く)

 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-01 11:59:01 (336 ヒット)

大ちゃん事件
この事件は神奈川県の片隅で10歳の男の子がダンプに曳かれた大事故に遭って出血多量でなくなったという事件でしたが、多分全国紙の大きな記事となって全国を揺るがせた大事件となりました。
1985年6月6日の午後4時35分、神奈川県川崎市高津区のJR久地(くじ)駅前交差点で交通事故が発生したとの119番通報が入りました。
これは、エホバの証人の危険さを日本全国に知らせた有名な事件となりました。その当時10歳の大ちゃんという少年が交通事故に遭ったのでした。両足をダンプカーにひかれるという大事故でした。病院に運ばれた大ちゃんは、出血多量で医師から輸血を勧められたのです。しかし大ちゃんの両親はエホバの証人の研究生でした。エホバの証人は、聖書から「血を食べてはならない」という禁止命令を重要視して、輸血することは、神エホバの命令違反であるとして教団が禁止していたのでした。
しかし、大ちゃんの怪我は両足骨折という大けがであり出血が多かったため病院の医師たちは両親に一刻も早い輸血を勧めたのでした。両親、特に父親はその輸血禁止であることを教団から聞いていたため、簡単に医師の勧告に従うことができません。しかし医師はそれも一刻を争う事態だと輸血を勧めます。父親は大ちゃんを助けたいのでその勧告に従おうとするのですが、エホバの団体からの禁止命令がある。ためにその長老に輸血の許可を願うのですが、長老は神の命令を無視しろとは言いません。医師の勧告を長老に何度も伝えて許しを請うのですが、エホバの証人の長老はあなたの信仰によると言って、良い返事を聞くことはできません。そうこうしているうちに、大ちゃんへの輸血の機会はなくなってしまい大ちゃんは回復不可能となってしまったのでした。
大ちゃんのお父さんが信じていたエホバの証人という宗教団体についても全国の関心事となりました。そしてルポライターの大泉実成氏の「説得」という実録や、ビートたけしがこの劇の大ちゃんのお父さん役をやったことでも有名となりました。
ここで有名になったのは、エホバの証人という新興宗教の長老が輸血を許可しなかったことに対する賛否!?でした。(続く)


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