投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-06 23:15:36 (258 ヒット)

ひと昔前に、「幸福の手紙」というものが流行ったことがある。それは、一枚のはがきであるが、それには、「この手紙をもらったあなたは必ず幸福になる。しかしそれには条件がある。あなたの知っている人5人に同じ手紙を出さなければならない」という言葉が書かれている。これをもらった人は、そしてこの手紙の文を信じた人は、いやそれほど信じなくとも5人の人に手紙を出さないと逆に不幸になってしまうのであれば出した方が良いと考えて、手紙を出してしまうのだ。
そのように「幸福の手紙」とは、名ばかりで、必要のない手紙を自分の知った人に出さなくてはならなくなった。受け取った人は、いや受け取ってその内容を信じた人はまた同じことを、しなければならなくなった。そのようにそのことを信じた人は無意味なことを無限に続けなくてはならなくなった。
そしてついにその「幸福の手紙」は、『不幸の手紙』と言われるようになったのだ。エホバの証人の奉仕も結局そのように不幸の無限の連鎖を引き起こすようなものではないかと考えた人がいたのである。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-04 19:29:15 (101 ヒット)

エホバの証人は、聖書を読んでいると自慢をしているが、ほんとうに、聖書を読んでいるのだろうか。非常に疑問である。なるほど彼らはたしかに「聖書」を読んでは、いる。しかし彼らが読んでいるのは、ものみの塔(統治体)が、選んだ個所であり、その読み方も統治体が指定した読み方である。聖書の言葉が統治体に都合が悪ければ、彼らはそれを自分の都合の良いように適当に変更しさえするのだ。ヨハネの福音書3章14節のかいざんでみたようなものである。      
エホバの証人は、彼ら統治体の文章を読んでいるのである。聖書が何を言っているか、つまり、神エホバが何を言っておられるかを読まずに、統治体が何を言っているかを読んでいるのだ。
たとえば、しばしばエホバの証人が引用するマタイの福音書28章19節を見てみよう。
「19それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し・・・(新世界訳)」
もしこのことをエホバの証人が実行したとしても、このことによって、はたして、神様は、彼らの言うように楽園に入れてくれるのだろうか。非常に疑問である。なぜならこのことを実行すれば永遠のいのちが与えられるとも書かれていない。この19節以降のどこにも書かれていないのだ。
彼らの自慢する奉仕活動も実はエホバの証人統治体の営業活動と考えてみると、もし奉仕をして成果が上がったとしても、統治体がほめてくれる以外に何かメリットがあるのだろうか。むしろどなたかが言ったように、不幸の手紙を出すようなものであり、エホバ神の賞賛はいただけないと思われるのだ。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-04 15:14:52 (97 ヒット)

                      
これまで、エホバの証人の聖書新世界訳のヨハネの福音書3章14節の訳文から、新世界訳のいい加減さを話してきた、つもりであった。しかし、ヤコブの手紙の読み方によっては、そのいい加減な訳文(「信じる」を「信仰を働かせる」に訳した)が正当化される可能性もなきにしもあらずと気がついた。 

そこでその辺の事情について検討して、息の根を止めたいと思う。
もう一度新世界訳のヤコブの手紙2章からの引用をしてみる。
「14わたしの兄弟たち,ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それは何の益になるでしょうか。その信仰はその人を救うことができないではありませんか。15 兄弟か姉妹が裸の状態でいて,その日の食物にも事欠くのに,16 あなた方のうちのだれかが,「安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それは何の益になりますか。17 このように信仰も,業が伴っていないなら,それだけでは死んでいるのです。」(新世界訳)

これを読むと、ほんものの信仰には業(わざ)すなわち行いが伴っていなければならない。それなら、「信仰を働かせる」と訳しても許されるのではないかということになりそうな気がする。「信仰がある」ことは、すなわち、業(わざ)すなわち行いが伴っているという意味になるのだろうか。さらに言えば、業(わざ)すなわち行いがあれば、信仰があるということにしても良いのではないか、ということになりそうだ。(エホバの証人は、奉仕ができなければ、バプテスマを受けさせないという。)

しかしそれはまったく違う。このことを聖書は、いやイエスは福音書の中で否定し、またパウロは、手紙の中で否定していると思う。そしてイエスを信じることの大切さ、不可思議さ、神秘さを、聖書は特に強調していると思う。

たとえば、イエスはヨハネの福音書7:38で
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる聖霊について、こう言われたのである。(新改訳2017)」
イエスを信じることの大切さがもっともよく表れていると思われる個所を見てみたいと思う。それはルカの福音書21章33節以降のイエスの十字架の場面である。
33「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。・・・・
39十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」
42そして言った。「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」
43イエスは彼に言われた。「まことにあなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(新改訳2017)
ここで、イエスに「今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われた犯罪人はイエスを信じただけで、何も行いはしていない。彼のしたことは十字架にかかったままその後、死んだと書かれているだけである。イエスはこの犯罪人の信仰だけを見てパラダイスに行くと判断されたのであった。ここに信仰の偉大さ、不可思議さ、神秘さを見ることができると思う。

エホバの証人統治体は、行いを、即ち「奉仕」と読み替えて、奉仕をしなければ、その信仰はエホバに認められない。と声高に叫ぶ。そしてその「奉仕」を見て、そのエホバの証人が「地上で永遠に生きることができる」?かどうかを判断するというのだ。
それでそのことを聞いた真面目な働き人エホバの証人は、ひっちゃきになって奉仕に歩いているのだ。
しかし、エホバの証人統治体が言っているようなことは聖書のどこにも書かれていない。
それともエホバの証人統治体が創った地上の楽園があり、エホバの証人にそれに入る許可を与えるとでも言うのであろうか。もしそんなことがないならば、まじめなエホバの証人をだまさないでもらいたい。ありもしない地上の楽園、入ることもできない地上の楽園を信じたエホバの証人は、一生を真っ赤な嘘のために棒に振ってしまうことになる。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-23 16:52:19 (117 ヒット)

では、多くのパウロの手紙、つまりローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、コリント人への手紙、エペソ、ピリピ、コロサイなどの手紙に書かれている、「信仰によって救われる」という文書類について、エホバの証人統治体はどのように考えているのであろうか。彼らは、そのような手紙で言われている「信仰によって救われる」ことは、天で支配する14万4000人だけに該当するので、地上で永遠に生きるという今を生きる大多数のエホバの証人には当てはまらないなどと言って棚上げしているのだ。もちろんヨハネさん、ペテロさんの手紙なども。

そして本当は孤立無援の!エホバの証人統治体にとって頼りにすべき最大の援軍は、ヤコブの手紙に尽きるのではないだろうか。彼らにとって藁(わら)をもつかむ考えなのだ。(そういえば、ルターは、ヤコブの手紙のことを、『藁(わら)の書』と呼んだそうだが、・・・)
ヤコブの手紙の「行いによる救い」攻撃についてはどのように考えたらよいのであろうか。この手紙は、本当に「行いによって救われる!」ことを主張しているのだろうか?
最新の(新改訳2017)の訳文でヤコブの手紙を引用してみる。
ご参考
ヤコブの手紙2:14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
2:18さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。(新改訳2017)

よく読んでみていただきたい。ヤコブは、「人は信仰でなく、行いによって救われる」と言っているでしょうか。ヤコブは、あくまで行いではなく、信仰が大事だと言っているのではないでしょうか。また信仰と行いの比較をしているわけでもありません。ただ「信仰」と言っても単に「信じている」と言うだけの信仰であれば、真の信仰と言えるのでしょうか、と疑問を投げかけています。信仰があれば、当然のこと行いにも現れるはずだと言っているのではないでしょうか。
「信仰が大事、信仰によって救われる」という基本的なことは、少しも揺らいではいません。ヤコブは、その信仰のありかたについて意見を述べていると思われます。
エホバの証人統治体の言うように、「信仰によっては救われない。行いによってのみ救われる。」ということではないと思われます。大事なことなので、もう一度言いますが、聖書は、ヨハネ3:16にあるように「真の信仰によって救われる。」ということは間違いないこととしています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-21 20:15:20 (119 ヒット)

私にとってヨハネ3:16に何があったか、話してみたい。
事の発端は、ある会合で、ある兄弟が、新世界訳聖書ヨハネ3:16の訳文がおかしいと教えてくれた。ヨハネ3:15のギリシャ語ピスチューオウの訳は、「信じる」となっているのに、次の節の16節では同じことばが「信仰を働かせる」となっている。これはおかしいのではないか、ということであった。うかつに、私はこの「信仰を働かせる」は、新世界訳聖書は、何かの理由で、この「信じる」というギリシャ語ピスチューオウを強調して翻訳したのではないかと思い、そのように返事をしていた。このピスチューオウというギリシャ語はどんなに考えても「信じる」「信じ込む」などの意味より発展することはできないと思われたからである。(その後ギリシャ語辞典で調べてみたが、基本の「信じる」の意味を超えることはなかった。)15節の訳が「信じる」であり、16節の訳が「信仰を働かせる」であったとしても、強調するか否かの違いと思われた。
しかし、驚いたのは、エホバの証人の主の記念式においてこのヨハネ3:16の訳について、ある長老が「信仰をもって働く」と注解したことだ。そしてこのように信仰をもって働く、つまり奉仕をしているのは、エホバの証人だけだ。だから地を受け継ぐのはエホバの証人だと講演をしたというのだ。このヨハネ3:16の訳は、青天の霹靂、超絶翻訳に思えた。まして長老が、である。長老の講演は、本部からその骨子が来て、それを少し調整して講演をするのだと聞いた。つまり、この解釈はエホバの証人統治体から来ている可能性が大きいのだ。
ヨハネ3:16は、1行聖書と言われるにふさわしく私は聖書全巻の要約として信じていたからである。この聖句にあるように、(エホバ)神が遣わされた神のみ子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかられたことを信じる者はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ、すなわち救われると信じているからである。
参考
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16新改訳2017)
エホバの証人は依然として信仰による救いではなく、行い=奉仕による救いを信じているのだということを再確認させられたのだった。
彼らは、聖書に「どんなに行いによっては救われない」と書かれていたとしても、いまだにというか、敢然とそれを無視して、行い=奉仕による救いを信じている人たちなのである。
というよりも、確かにエホバの証人団体は、まじめな一人一人のエホバの証人の一軒一軒への訪問によって成り立っているのだとすれば、行い(訪問)活動を美化して推進させることは彼らの団体の死命を決するような大事なことなのだ。
つまり、彼らエホバの証人を統括するエホバの証人統治体は、エホバの証人が救われるかどうかよりも(!!)その訪問活動によって自分たちと同じ不幸な活動する人を増やしその組織を維持する必要がどうしてもあるのだ。(つづく)


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