投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-23 16:52:19 (12 ヒット)

では、多くのパウロの手紙、つまりローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、コリント人への手紙、エペソ、ピリピ、コロサイなどの手紙に書かれている、「信仰によって救われる」という文書類について、エホバの証人統治体はどのように考えているのであろうか。彼らは、そのような手紙で言われている「信仰によって救われる」ことは、天で支配する14万4000人だけに該当するので、地上で永遠に生きるという今を生きる大多数のエホバの証人には当てはまらないなどと言って棚上げしているのだ。もちろんヨハネさん、ペテロさんの手紙なども。

そして本当は孤立無援の!エホバの証人統治体にとって頼りにすべき最大の援軍は、ヤコブの手紙に尽きるのではないだろうか。彼らにとって藁(わら)をもつかむ考えなのだ。(そういえば、ルターは、ヤコブの手紙のことを、『藁(わら)の書』と呼んだそうだが、・・・)
ヤコブの手紙の「行いによる救い」攻撃についてはどのように考えたらよいのであろうか。この手紙は、本当に「行いによって救われる!」ことを主張しているのだろうか?
最新の(新改訳2017)の訳文でヤコブの手紙を引用してみる。
ご参考
ヤコブの手紙2:14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
2:18さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。(新改訳2017)

よく読んでみていただきたい。ヤコブは、「人は信仰でなく、行いによって救われる」と言っているでしょうか。ヤコブは、あくまで行いではなく、信仰が大事だと言っているのではないでしょうか。また信仰と行いの比較をしているわけでもありません。ただ「信仰」と言っても単に「信じている」と言うだけの信仰であれば、真の信仰と言えるのでしょうか、と疑問を投げかけています。信仰があれば、当然のこと行いにも現れるはずだと言っているのではないでしょうか。
「信仰が大事、信仰によって救われる」という基本的なことは、少しも揺らいではいません。ヤコブは、その信仰のありかたについて意見を述べていると思われます。
エホバの証人統治体の言うように、「信仰によっては救われない。行いによってのみ救われる。」ということではないと思われます。大事なことなので、もう一度言いますが、聖書は、ヨハネ3:16にあるように「真の信仰によって救われる。」ということは間違いないこととしています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-21 20:15:20 (19 ヒット)

私にとってヨハネ3:16に何があったか、話してみたい。
事の発端は、ある会合で、ある兄弟が、新世界訳聖書ヨハネ3:16の訳文がおかしいと教えてくれた。ヨハネ3:15のギリシャ語ピスチューオウの訳は、「信じる」となっているのに、次の節の16節では同じことばが「信仰を働かせる」となっている。これはおかしいのではないか、ということであった。うかつに、私はこの「信仰を働かせる」は、新世界訳聖書は、何かの理由で、この「信じる」というギリシャ語ピスチューオウを強調して翻訳したのではないかと思い、そのように返事をしていた。このピスチューオウというギリシャ語はどんなに考えても「信じる」「信じ込む」などの意味より発展することはできないと思われたからである。(その後ギリシャ語辞典で調べてみたが、基本の「信じる」の意味を超えることはなかった。)15節の訳が「信じる」であり、16節の訳が「信仰を働かせる」であったとしても、強調するか否かの違いと思われた。
しかし、驚いたのは、エホバの証人の主の記念式においてこのヨハネ3:16の訳について、ある長老が「信仰をもって働く」と注解したことだ。そしてこのように信仰をもって働く、つまり奉仕をしているのは、エホバの証人だけだ。だから地を受け継ぐのはエホバの証人だと講演をしたというのだ。このヨハネ3:16の訳は、青天の霹靂、超絶翻訳に思えた。まして長老が、である。長老の講演は、本部からその骨子が来て、それを少し調整して講演をするのだと聞いた。つまり、この解釈はエホバの証人統治体から来ている可能性が大きいのだ。
ヨハネ3:16は、1行聖書と言われるにふさわしく私は聖書全巻の要約として信じていたからである。この聖句にあるように、(エホバ)神が遣わされた神のみ子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかられたことを信じる者はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ、すなわち救われると信じているからである。
参考
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16新改訳2017)
エホバの証人は依然として信仰による救いではなく、行い=奉仕による救いを信じているのだということを再確認させられたのだった。
彼らは、聖書に「どんなに行いによっては救われない」と書かれていたとしても、いまだにというか、敢然とそれを無視して、行い=奉仕による救いを信じている人たちなのである。
というよりも、確かにエホバの証人団体は、まじめな一人一人のエホバの証人の一軒一軒への訪問によって成り立っているのだとすれば、行い(訪問)活動を美化して推進させることは彼らの団体の死命を決するような大事なことなのだ。
つまり、彼らエホバの証人を統括するエホバの証人統治体は、エホバの証人が救われるかどうかよりも(!!)その訪問活動によって自分たちと同じ不幸な活動する人を増やしその組織を維持する必要がどうしてもあるのだ。(つづく)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-17 11:11:36 (10 ヒット)

イエス・キリストの福音書を読んでいると、「信仰」の働きがどんなに大きなことかを思わせられる。イエスに信仰を持った人たちにどんなに素晴らしいことが起きたであろうか。
たとえば、マルコの福音書5〜6章などを読んでみると非常によく分かる。イエスを信じた人すべての人たちの病が癒されるのである。
しかし、驚いたことに、この6章6節には、イエスを信じなかった人たちのことが書かれている。イエスを信じなかった人たちは、イエスの郷里の、つまり出身地の人たちであった。イエスを昔から知っている、いや知っていると思っていた人たちであった。その人たちにどんなことが起こったか、みてみよう。

マルコ6:1~5節を引用してみる。
『イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。
この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
それで、何人かの病人に手を置いて癒されたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。
イエスは、彼らの不信仰に驚かれた。(新改訳2017)』
イエスは人にも自然にも力ある方であったが、ここから読む限り、イエスに対する信仰が、イエスが奇跡を行なうのに何らかの力となっているに違いない。イエスは、ご自身への人の信仰がない場合には、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。と、聖書に書かれているのである。イエスは、そこにおいて奇跡を行なうことができなかった。
これは、奇跡を行なうことに限られることなのであろうか。イエスの信仰による救いにも、当然関係があると言って良いのではないだろうか。
イエスの十字架の後、パウロやペテロ、ヨハネが説いたイエスの信仰による救いについても少なからず言えることではないかと思う。
このことを同列に比較することはできないとは思うが、イエスが罪びとを救う力があるとしてもイエスを信じない人に対してはその御力を働かせることはできない、つまり「救われない」ということではないか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-14 22:27:53 (15 ヒット)

ヨハネ3章16節は、聖書を信じる者にとって、「一行聖書」と言われているくらいに、有名な聖句であると前回お話しした。もう一度新共同訳を引用してみる。
(新共同訳)
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神がこの人間世界を愛するがゆえに、その独り子イエス・キリストをこの世に与えて、イエス・キリストを信じる者は、ひとりも滅びないで永遠のいのちを得ることができる、というのがこの聖句の意味である。また「一行聖書」と言われるわけも、このことを聖書全体が言っているからであると思われる。
 つまり、イエス・キリストを信じることによって、人々が救われるということだ。
しかし新世界訳の訳は、そこをひっくり返して、だれでも「彼に信仰を働かせる」と訳すことによって、「信仰を働かせる」という訳をすることにより、本来信じるの強調と見られる意味を、「働かせる」に引っ掛けて、行いをすることにまで無理やり意味を変えてしまったことによって、ついに誤訳と言わなければならない領域に踏み込んでしまったのであった。

参考「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。」(ヨハネ3:16新世界訳)

もちろんこの誤訳は、自然にとか、うっかりとかいうものではなく、「信じる」を「信仰を働かせる」と訳したときから、その目的は決定していたと言えるだろう。

つまり、彼らエホバの証人統治体の目的は、エホバの証人に1軒1軒訪問する奉仕をさせて、ものみの塔の信者を増やすためなのである。

 このことに私たちが気がついたとき、私たちはものみの塔エホバの証人統治体のおそろしい目的に、否応なく気づかされるのである。

ヨハネ3章16節が、「一行聖書」と言われているほど、聖書の真理を語っていると初めのところで述べたのだが、その意味を変えて、信じることから行動にしてしまうことによって彼らエホバの証人は果てしない奉仕という無間地獄に落とされてしまうことになるのだ。彼らは聖書を、つまりヨハネ3章16節を読んでも、イエスを信じるという神の国の入り口を通り過ぎてしまうことになる。そして彼らは統治体の意を汲んだ長老たちの指導の下に、信じるよりも信仰を働かせること、つまり永遠のいのちの入り口を横目に見ながら、奉仕に駆け回ることになるのだ。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-05 14:10:34 (43 ヒット)

ヨハネ3章16節
(新世界訳)
15 それは,彼を信じる者がみな永遠の命を持つためです。
16 「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。
(新共同訳)
15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネの福音書3章16節は、実は、聖書を信じる者の間では非常に大事な聖句とされている。とても大事で、このことばは、聖書の中の聖書と言われているくらいなのである。上にかかげたのは、エホバの証人が常に用いる新世界訳聖書とカトリックとプロテスタントの教会が共同で訳した新共同訳聖書の同じ個所である。

この個所をしばらく比べてみていただきたい。非常に似ているが、ちょっとちがっているところが目につくと思う。15節はほぼ変わりがないと思う。違っているのは、16節である。新世界訳では、「だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで」と訳されているが、新共同訳では「独り子を信じる者が一人も滅びないで」と訳されている。新世界訳は(彼に信仰を働かせる者)となっている。共同訳の(独り子を信じる者)よりも丁寧に訳されているように見える。共同訳の「信じる」を「信仰を働かせる」と翻訳している。

意味としては、変化がないように思われるのだが、エホバの証人の解釈は違うのである。この「信仰を働かせる」は、「信じて行動をおこす」ものという解釈なのである。彼らエホバの証人はこの「信じる」という言葉にこのような意味を持たせることによって、驚くことに、奉仕をしているのはエホバの証人だけなのだから、「滅ぼされない」のは、つまり、救われるのは、エホバの証人だけだと主張するのである。

はたしてこの主張は正しいのだろうか。
まずこの翻訳は正しいのだろうか。この「信じる」という言葉は、聖書本文を見ると3章の15節と16節に出てくるが、まったく同じことばなのであるが、16節だけは、「信仰を働かせる」と訳している。3章の15節と16節は、どこも変わったところはないのである。このように違う訳になる理由はまったくない。参考までに、口語訳、新改訳・新改訳2017の訳文も見てほしい。これらの訳はまったく変わらない。
またさらに、この訳文「信仰を働かせる」は、先に示したように、信仰をもって行動すると訳すことは、不可能である。普通に日本語を学んだ人であれば、「信仰を働かせる」をどう読んでも、(強く信じる)または(自ら信じようとする)などとしか意味を取ることはできないだろう。彼らエホバの証人は、統治体の指令によって、「信仰をもって働く」などと無理に読み替えているのであろう。まさにめちゃくちゃな読み方としか考えられない。
さて、それではこの読み方にしたがって、エホバの証人のこの聖句の読み方に従って行動すなわち奉仕をしたとき、真に神のみこころに従っていると言えるのだろうか。
この聖句は、エホバの証人の読み方ではなく、普通に日本語を読む読み方で読んでみるとどうなるのだろうか。他の読み方もほとんど変わりないのだが、口語訳の訳で読んでみよう。
15節:「彼を」…つまりイエスを信じる者は、すべて永遠のいのちを得る、つまり救われると書かれている。
16節:ここには15節の理由が書かれているようである。つまり、神は地上の人間が堕落しているために、神の国におられるご自身の独り子を、地上に送って罪ある人間の代わりに独り子を罰するほどに人間を愛してくださったのである。それは御子イエス・キリストがそのために死んでくださったことを信じる人はひとりも滅びないで、永遠のいのちをいただけるのである。
改めてその意味を解説するほど、難しく書かれているわけではない。もちろんこの聖句の指し示す救いの意味は、ここに何行かで解説できるほど易しくはないと思うが、決して行動つまりエホバの証人の奉仕をすることによって永遠のいのちが得られるとは読めないと思う。つまり、永遠のいのちを得るためには神のみ子イエスを信じることによるということであり、それ以外に永遠のいのちをいただく方法はない。
信仰による救いを支持する聖句は新約聖書の中に多々あるが、2,3挙げてみよう。
・しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ2:16)
・事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(汽灰螢鵐1:21)
「信仰によって救われる」としか読めないような聖句を、無理やり奉仕に結びつけようとするエホバの証人統治体の誤導に得々として従っている勤勉なエホバの証人の信仰を心から危惧する。このような指導の下に終わりを迎え神のさばきに会うとしたら…と考えるからである。一刻も早くしっかりと聖書を読んでイエス・キリストの救いに与ることを祈ります。(この項終わり)

(口語訳)
15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(新改訳・新改訳2017)
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。


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