投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-08 16:08:58 (108 ヒット)

去年の春ごろ、妻がスーパーからフリージヤの鉢を買ってきた。
フリージヤをご存じだろうか。葉は小さなアヤメのようにナイフの刃を重ねたようである。花は黄色い小さな花が1列になって咲く。その花はとても良い香りがするのである。小さな花は、マンションの小さな花壇を少しの間賑わせてくれた結構長持ちのする花であったが、2,3か月で枯れてしまった。その後そのような花の運命であるかのように枯れたまま、鉢の土もカラカラになって、花壇の隅に捨てられていた。私は秋に向かう頃、このままではこの花もあんまりひどいなと思い、小さな鉢を買い、球根になっていたこのフリージヤを並べて土をかけて植えてみた。その時は、まあ、ひとつでも葉っぱが出てくれば良いかなと思っていたのだ。
 しかし、秋を越え、冬もまだ終わりには程遠いときであった。その鉢からポツンと一つ、緑の芽が出て来た。 ああよかった。この花も死なずに生きていてくれた、花が終わったら知らぬ顔の冷たい買い主の仕打ちにもかかわらず、よく生きていてくれた、とおもった。しかし、驚きはそれでは終わらなかった。ひとつ芽が出たと思ってみていると、この花は次々と芽を出して、小さな鉢いっぱいに、植えたモノが全部芽を出したのだ。
「ああ、よかった」神はフリージヤを見捨てられなかった。いや、私を見捨てたまわなかったという感じである。

 それだけではない、芽が出て小さなナイフ状の葉が次々に出てきた。約10個くらいが小さな鉢に勢ぞろいをした。そしてそれぞれがそれなりに大きな葉を伸ばしてきた。
葉っぱが出ると次は花、いやつぼみである。
この花はいつごろ咲くのだろうか。まだ寒い冬の最中からつぼみへの期待が高まった。まったく人間とは、図々しいものである。葉っぱが出れば良いと思っていた私たちが今度はつぼみを期待している。
すると春も近いこのころにつぼみが見えた。
ナイフの刃が重なっているようなフリージヤの株からどのようにつぼみが出てくるのだろう。神の御業に対する期待が高まった。するとあるときその重なっている葉っぱの中心部分の上部の中心部分につぼみのような影が薄くポツポツと見えたのである。
ああ、ひょっとするとこれがつぼみかと思っていると、そのつぼみの影のようなものがナイフのような葉っぱの間から「私ですか」というように顔を出してきたのだ。
それから5,6株のフリージヤからそのように次々と顔を出したのである。そして間もなく最初から居たのだというようにつぼみは次々と大きくふくらんでもうすぐに黄色い花が咲こうとしている。ああ、神の御業の素晴らしさよ。私の胸は膨らんでいる。(終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-13 17:12:37 (180 ヒット)

聖書は、神の書かれた本と「ものみの塔」は言っている。それは良いだろう。そして実際に聖書を読むと不思議なことがたくさん書かれている。それは、神は全知全能の方であり、神のみこころやみわざは、人知を超えたものだからだ。
 しかし、「ものみの塔」は、過去のこととして気楽に物語る。旧約聖書の中の出来事は、以前の物語、昔の物語として片づけることができる。
しかし、現代に通じる「使徒の働き」以降の話しについては、神の働きである聖霊の物語となる。(使徒2:1以降)彼らはこの現代の事実につながるお話をやはり過去のこととして閉じ込めておきたいようである。彼らJW統治体は、聖霊の働きを過去の物語に閉じ込めて、それらを人間自身の努力におきかえたいようである。

 神は、「求めよ、そうすれば与えられる」(マタイ7:7)と聖書で言われた。
聖書によれば、誰でも求めれば与えられるもの、それは聖霊ではないのか。もしそうなら、聖霊は誰にも与えられ、神のみこころは理解できるはずである。
しかしものみの塔は、いや、JW統治体は、自らを聖霊の経路と規定し、聖書の読み方をコントロールしている。そして無知で無邪気?なエホバの証人にそのように教育している。
 彼らJW統治体は、何をしたのか。神に直接聖霊を求めないようにしたのだ。そのようにして神の聖霊つまり神と、個人つまりエホバの証人との連絡を遮断しているのだ。
彼らは神との経路を遮断して真の聖霊との経路を塞いだ。そして彼らのにせ経路から彼ら統治体の指令命令を神の命令として聞くようにしたのだ。

 しかし、実際、神の直接の経路である聖霊との連絡は、閉ざされてはいない。神の御言葉はいまも残っている。
イエス・キリストは言われる。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
そのとおり、イエスが、父への道であり、イエスを通してでなければ、父のみもとに行くことはできない。
 逆に言えば、イエスを通してであれば、だれでも父のみもとに行くことはできるのだ。

エホバの証人は、この点で大間違いをしている。エホバの証人は、父のみもとに行くのは、組織、つまり統治体を通してでなければ、父のみもとに行くことはできないと思っているのではないか。JW統治体は、聖霊の経路だなどと言って、神の御言葉=聖書のみ言葉を忘れさせて、統治体を向かせようとしてる。彼らの集会、大会、ものみの塔、あらゆる出版物を通してでなければ、神のみもとに行けないとして、エホバの証人を正しい道から遠ざけているのだ。
騙されてはいけない。神への道はまだイエスを通して開かれているのだ。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-06 18:06:08 (199 ヒット)

JWエホバの証人は、最近なんと創世記1章に書かれている神の6日間の創造を否定するようになった。
驚くべきことを自ら明らかにしてきている。エホバの証人という名前は、聖書にある神のわざの証人となることではなかったのか。確かに神のわざについてはっきりとしないことはあるかもしれない。しかしそれを科学の名のもとに否定することは、自分の存在価値を否定することではないのか。またむしろそのことに気がつかないことに非常な恐ろしさを感じるのはわたしだけであろうか。それでもなおエホバの証人を名乗って恥としないのは、自ら名乗っている「エホバの証人」の意味がまったく分からないのではないか。

聖霊によって書かれた聖書を、聖霊の経路!であるJWが否定する矛盾について書きたいと思う。
聖霊を受けた人たちと主張するJWが、聖霊を受けた人たちによって書かれた聖書を否定するものだろうか。 それともJWが受けた聖霊は、聖書を書いた人たちが受けた聖霊と違うものだろうか。
いや、聖書には聖霊は神が変わらないと同様にいつまでも変わらないと書かれている。では、何故彼らJW統治体は聖書に書かれていることを否定するのだろうか。つまり彼らJW統治体が聖霊を受けた、または受けていると主張していることに疑問符をつけなければならないということだろう。

 それで、私たちと同じ異邦人たちはどのように聖霊の経験をしたのだろうか。聖書がどう言っているか聖書を読んでみたい。不思議なことに、このような記事は「使徒の働き」に集中している。イエスはわたしが去った後、もう一人の助け主聖霊をあなたがたに送ります。と福音書で言われているので当然だろうが。

 まずペテロの経験を読んでみる。ペテロはユダヤ人で、異邦人に対する伝道は異邦人は汚れたものと考えていてできない。そこで神は夢によってペテロを説得する。律法で食べてはいけないとされている汚れた動物たちを天から示されて、これを食べよと命令する。ペテロが拒否すると、神は、「神がきよめたものを、きよくないと言ってはならない。」と言われた。ペテロが異邦人に対する伝道を断らせないためである。
 そこへ異邦人ローマの百人隊長であるコルネリオからの使いがやってくる。そしてペテロと仲間たちはコルネリオの家に行ってイエスを宣べ伝える。
「そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にお下りになったのです。」(使徒11:15)ペテロは、神は異邦人でもイエスを信じる者には聖霊が与えられることに気がつくのだ。
 ここで、よくよく考えてみよう。聖霊を与えたのは、イエスを宣べ伝えたペテロだろうか。
エホバの証人は、ペテロや主の兄弟ヤコブなど当時エルサレム教会にいた使徒たちが、エホバの証人統治体だと主張している。もし仮に百歩も千歩もゆずってそうだと仮定してみてもこのローマ人の百人隊長コルネリオに聖霊を下されたのはペテロではない。ということは、エホバの証人統治体が聖霊を下したのではないということだ。ペテロは、その後の11章17節でこう言っている。
「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
 まして、何故偽預言者団体であるエホバの証人統治体が、神の聖霊を与える聖霊の経路であるなどと主帳できるのだろうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-18 10:43:21 (286 ヒット)

・旧約における血の問題
ただし肉は、そのいのちである血のままで食べてはならない。(創世記9:3、4)
JW統治体は、これらの記事から輸血は禁止すべきだと結論した。

しかし、この律法における「血」とは、羊など家畜の血である。だから、いつも食べる可能性のある家畜の肉に含まれている血を指して食べてはいけないと言ったので、人の血は初めから考慮に入れていなかったはずである。もちろん人の血を食べるという習慣はイスラエルに無いことは当然である。だから、「輸血」と律法の「血を食べてはならない」とは、関係がないはずなのだが、JW統治体はさらに、「食べる」ではなく血を体に取り入れると律法を捻じ曲げて、「輸血」を「血を食べること」と無理やり曲解して禁止するとした。だから聖書的には初めから輸血は律法とは関係がなかったのだ。

しかし、百歩譲って(本来ゆずってはいけないところであるが、)彼らが言うように、この禁止命令を輸血にも適用できるとして考えてみよう。実際に、JWはこの規定に縛られているのだから仕方がない。
創世記やレビ記の「血を食べてはならない」とは、現在にも適用しなければならないものだろうか。
その家畜の血は、なぜ食べてはいけないとされたのであろうか。創世記、レビ記において、神を礼拝する儀式に血によって清めることは普通であった。創世記、レビ記において、常に行われることであった。「肉の命は血にある」と言われ、いのちを創られたのは神であるので、礼拝場所を清めるためにその血を用いられたのだと思われる。そしてそのために血を用いるために、血を食べてはならないとされたのではないか。
しかし、イエス・キリストが十字架にかかられて真のきよめが行なわれたとき、家畜の血による清めは必要がなくなった。
・新約における血の問題
新約聖書にも、血に関する勧めが書かれている。そしてそれをJW統治体は、「血を食べてはならない」の根拠として用いている。
下記の新約聖書の記事を見てみよう。
また使徒の働き15:28の記事に「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです」という命令、勧告がある。これは、使徒時代のエルサレム教会の中心人物主の兄弟ヤコブがエルサレム会議の結果をまとめたものであった。これは使徒の働き15章に書かれているとおり、異邦人のイエスを信じる人たちはモーセの律法を守らなければならないのだろうかという会議であった。
この問題の発端は、アンテオケ教会に来たユダヤ人信者が、「イエスを信じるだけではだめで、モーセの律法をも守らなければならない」と主張した点にあった。(使徒15章)パウロはイエス・キリストを信じて救われるためにはモーセの律法をも守らなければならないか。それはつまり、ただイエスを信じるだけの者たちを信者と認めるかということであった。議論は、大いに紛糾したようであった。
その結果、ペテロのコルネリオというローマの百人隊長の回心の実例などから、イエスを信じることで救われる。そして当然キリストの信者と認めることにした。しかし「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれている」(使徒15:21)ことから、その人たちを考慮して4つのことつまり「ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血を避けるように彼らに書き送るべきです。(同20節)
 そのため、読めば分かるように、この「血を避けなさい」という命令、いや、勧告は、それを破ったら死ななければならないという命令では決してないのである。

ものみの塔JW統治体は、イエス・キリストの恵みを信じないで、なにか旧約の時代に帰ったもののようにこの中の勧めのひとつである「血を避けるように」を、あたかもこの「命令」を破ったら断ち切られるとした。この時点で彼らはイエス・キリストの恵みを無視して、神(エホバ)の命令に逆らう者となったと言えないだろうか。

「口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、それが人を汚すのです。」(マタイ15:11)
イエスは言われた。「あなたがたもまだ分からないのですか。口から入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。」(マタイ15:16〜17)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-04 21:13:07 (240 ヒット)

私は、輸血を拒否するという、死に至るものみの塔エホバの証人の教理に大きな疑問を感じたのと同時に、この大ちゃんのお父さんの取った行動にもなにかすっきりしないものが感じられた。なぜ自分でかわいい息子大ちゃんの治療について、この方が属していたという団体の長老に許可を受けなければならないのか。信仰とは、そのようなものなのだろうか。

ものみの塔エホバの証人という宗教団体は、聖書に従う宗教だと聞いていたが、この長老は聖書よりもえらいのだろうか。非常に単純で素朴な疑問であるかもしれない。しかしこの新聞記事を読んだり、たけしのテレビドラマを見たりするたびにその単純で素朴な疑問が、私のあたまをよぎった。輸血をするということに、そんなに神に逆らう要素があるのだろうかという疑問である。信仰とは、個人的なものという考えは間違いだったのだろうか。
その後、何年も経過するが、少し変更はあったけれど、その素朴な考えは変わっていないと思う。また彼らの輸血拒否の教義について聖書的根拠を探って、全くそのような教えは聖書に従っていないことを知ることができたのは幸いであったと思う。


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