投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-01 14:16:06 (513 ヒット)

時々、神様はなぜ私たちがご自身を信じることをこんなに喜ばれたのだろうかと考えることがある。神様は、なにか素晴らしいことができる人たちを選んで神の国に連れて行くことを考えなかったのだろうか。

 たとえば素晴らしい絵を描ける人を選んで神の国に連れて行けば、そこで彼らはとてもきれいな絵を描いて天使たちやそこにいる人たちを喜ばせることができるのではないだろうか。そういう絵を描ける人は心もきれいな人に違いないのだから。

 でも神様は、また神から遣わされてきたイエス・キリストはそのようなことはなさらなかった。

 イエス・キリストはどのような人を喜ばれただろうか。一つ言えるのは信じる人をとにかく喜ばれたことだ。

 イエス・キリストが言われたことやなさったことが書かれてある福音書を見てみよう。最初にあるのはマタイの福音書でその8章5節からを見てみよう。
イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。わたしのしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」と言う。
 するとイエスは彼に言われた。「行って治してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただおことばをください。そうすれば私のしもべは治ります。中略」イエスはこれを聞いて驚かれ、ついてきた人たちにこう言われた。「まことにあなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。中略」それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」するとちょうどその時、そのしもべはいやされた。」

 数ある信じたことによる癒しの中でもここではイエスは百人隊長ですからローマ人だったのでしょうが、この絶賛は、他には見られないほめかたである。イエスは、信じるということをほんとうに喜ばれた。(続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-31 11:11:21 (607 ヒット)

エホバの証人は信じることを軽んじている。そして行うことつまり奉仕することを重視している。または私見では、奉仕することを重視するために信じることを軽視させているのではないかと思う。誰がかというのですか。もちろん、統治体である。そしてそのようにものみの塔ほかの書籍に書かせる。

統治体が奉仕することを重視するメリットはたくさんある。一つは、その目的であるエホバの証人が増えること。また次のメリットはエホバの証人がつらい奉仕をすることによって神に奉仕をしているという良い英雄的な気持ちになれること。キリストの弟子たちもこのようなつらさを覚えていたのだろうとこれは非常に良い気持ちでありましょう。

3つ目のメリットは、さらに大事である。エホバの証人がものみの塔そのほかの統治体の出す文書をいや考え方を、また聖書の解釈を疑わないことである。そのようなことを考える時間を与えないことである。

 それでもなお統治体の出すものみの塔ほかの文書を疑って、聖書の真理にたどり着く方々は多いとも聞いているが、それでもこのことは、エホバの証人から統治体を批判する時間と能力を奪っていることはうたがうことはできないでしょう。

 エホバの証人が、ものみの塔の言っていることと聖書に書かれていることが違うということに気が付けばそこに真のイエス・キリストによる救いの道が見えてくるはずである。

 さて神様はなぜ信じるということにこんなにも価値をおかれたのか、ぜひこれをお読みの皆様も考えてみていただきたいと思うのです。神様は私たちが神様をキリストを信じることにどのくらい価値を置かれているのかを聖書から聞いていきたいと願っています。

 聖書にはたくさんの実例があると思いますが、浅学の私が気が付いたところを1か所、見てみたいと思います。

 旧約聖書汽汽爛┘覽16章は、サムエルが初代サウル王を退けられた神の命令で2代目を選ぶところですが、7節を見てみましょう。
「しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしはかれを退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』」

こうして神は2代目をダビデにお選びになった。

神は「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。

神様が人間を見られるその原則がここに現れているように思います。(この項続く) 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-30 15:03:52 (569 ヒット)

エホバの証人は、どうも信じることを軽んじるようだ。何故かと言えば、「キリストを信じることによって救われる」というと、「そう思えば救われるのですか。」と反論してくる。

 エホバの証人は、たぶん新約聖書のローマ人への手紙なども読み
信仰のことも聞いてそう言っているのだろうが、また信じることを軽んじるように見えるのもまた聖書のヤコブの手紙によるのだろう。

 たとえばヤコブの手紙の2章14節にはこのように書かれている。
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」とあって、そのあと信仰による行いが大切であることをその後書かれている。

 これらのことから行いが大切であることは誰しもわかる。でもそれならということでここに書かれていることから、信仰よりも行いが大切であると読むことはできないでしょう。

 やはり信じることは何よりも大切であり、その信仰が全く行いに表われないのであれば、その信仰は本ものなのであろうか、との疑問が提出されているのだ。

 これらの箇所から、とにかく行いが大切、だから奉仕をしなければ救いにあずかることはできないと、統治体に教えられているのがエホバの証人なのである。こういう個所から、短絡的に結び付けられるのが前の項で書いたマタイの福音書の最後28章19節
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」である。
だから、奉仕活動、だから伝道活動ということになっていくようである。

確かにここにはイエスの命令がある。しかしよく読んでみてください。その結果、そうすれば「あなたは神の怒りから救われる。」とも「神の子とされる」とも言われていない。

 エホバの証人の方に聞きたいのは、エホバの証人の奉仕活動と救いとが結びついてしまっているのではないかということだ。

 イエスは、信じることの価値を福音書の中ではっきりと語っておられる。たとえばマタイの福音書8:13には「それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
またおなじくマタイ9:27〜
「イエスがそこを出て、道を通って行かれると、二人の盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついてきた。家に入られると、その盲人たちはみもとにやってきた。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、あなた方の信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。 

 このようにイエスは、信じる者の信仰をないがしろにされないのだ。(この項続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-28 06:17:50 (524 ヒット)

「エホバの証人は、真のクリスチャンだ」という主張がいつも見え隠れしている。真のクリスチャンはだれか?!という題名の「ものみの塔」をつい最近見たのだが、あれはどこに行ってしまったのだろうか。いつの間にかどこかに行ってしまったようである。

 そのように、エホバの証人は自分たちが真のクリスチャンだと思っているようだし、統治体もそう言って彼らを励まし奉仕に駆り立てているようだ。

 その根拠は何かというといつも出てくる、いわゆるキリストの大宣教命令である。新約聖書マタイの福音書28章20節をいつも引用する。「また、わたしがあなたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(新改訳聖書)
 そしてその命令を実行しているのは彼らエホバの証人だけだと言う。そして彼らエホバの証人だけが、初期の弟子たちがキリストの命令を守ったように「家から家へ」訪問して聖書を宣べ伝えているともいう。だから真のクリスチャンはエホバの証人だというのである。

 この議論にはたくさんの穴がある。まず世界ではじめにクリスチャンと呼ばれたのは、イエス・キリストが十字架(苦しみの杭でもよい)についた後である。そして弟子たちがキリストを宣べ伝えはじめてから、初めてキリスト者つまりクリスチャンと呼ばれるようになった(使徒の働き11章26節)のである。

 このことからすると、真のクリスチャンは「キリストを宣べ伝える人たち」だということになる。

 彼らエホバの証人は、キリストを宣べ伝えてはいない。彼らが伝えているのは、言ってみれば「神の国」の到来であり、キリストの救いを宣べ伝えているのではないのである。

 そのことを彼らに問うと、『キリストはエホバと同じでしょう?だからキリストを宣べ伝えていることになるのです。』などと自分の都合でキリストはエホバと同じだなどと言い出すのも恐ろしいことだ。そのことはキリストの救いを認めるかどうかで世界は全く異なることになるのだから。

 キリストの救いを宣べ伝えないで、エホバの証人のどこが真のクリスチャンと主張できるのだろうか。私たちはエホバの証人がキリストの救いをほんとうに認め受け入れて『真のクリスチャン』となることを願いまた祈っているのだから。(この項たぶん続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-24 08:26:23 (767 ヒット)

エホバの証人統治体は、イエス・キリストはエホバの証人だという。だから今のエホバの証人もあの「エホバの証人」死を賭してエホバを証ししたイエス・キリストに倣えと言っているらしい。

 確かにイエス・キリストは、ご自分の死を通して神のみこころを証しして、そのみこころを成し遂げた。そのことにおいて確かにエホバの証人である。ただし現実のものみの塔を売って歩くエホバの証人のことではない。ヨハネの福音書1章18節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」という意味での神の証人(あかし人)である。

 しかし実はそれにはとどまらない。イエス・キリストは神のみこころ、ご意志をご自分を苦しみの杭(十字架)の死によって成し遂げられた。そのことこそ重要である。

 統治体は、『イエスは苦しみの杭をさえ堪え忍んだ。だからエホバの証人も統治体の横暴に耐えろ』というのであろうか。

 イエス・キリストは十字架の死に堪えた。神のみこころを、すなわち神の愛を表すために死なれた。私たちの罪をすべて背負って私たちの代わりに罰を受けられたのである。その結果私たちの罪は赦された。そのこと以上に重要なことが他にあるだろうか。

 イエス・キリストは、神の愛を表したという意味において確かに『エホバの証人』であろうが、そのこと以上に私たち罪人の『救い主』なのである。

 何故救い主かというと、罪ある人間はその罪によってエホバ神から裁判にかけられ有罪の判決が下ることは間違いないからである。イエス・キリストは、その罪をかぶって、いわば無実の罪で十字架に罰せられたのである。

 では、罪ある私たちの罪はどうなるのか。イエス・キリストが代わりに罰せられたのであるから、もう罪はないことになる。

 私たちは何もしないのに!?という疑問があるだろうが、そうなのである。しかし「何もしない」ということではない。私たちは神様がそのことをしてくださったということ、つまりイエスが私たちの罪を背負って死なれたということを信じなければならない。

 聖書には、そのことについていろいろな個所に書かれています。たとえば、ローマ人への手紙5章8〜9節を見てください。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」

 (この文だけからでもわかるように、「キリストの血」というのは「キリストの死」を表しているのです。決して輸血拒否が正しいという証拠にはなりません。)

 イエス・キリストは私たちの模範でもありますが、罪なくして私たちの身代わりとして死んだ神の子であることを忘れないようにしましょう。(この項おわり)


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