投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-19 21:31:30 (664 ヒット)

「ものみの塔」では、イエス・キリストは神ではないとはっきり言っている。

またリベラリズムキリスト教でもやはり同じである。こんにち、このようにこのリベラリズムに毒されているキリスト教会でいくらものみの塔の解釈を止めさせようと思っても彼ら自分たちがそのように考えているのだから止めさせられるわけがないだろう。

ものみの塔のイエス・キリストが神ではないという根拠は、聖書でイエスがそのように言っていると言うのだ。イエス自身がエホバのことを「私の神」また「唯一まことの神」と呼んでいるからというのだ。

そう、確かに聖書にそのように書かれている。例にあげているのはマタイ27:46またヨハネ17:3などである。

しかしイエスは、クリスマスの聖書記事にあるように神が天から細心の注意を払って地に降された独り子だったのだ。イエスは人間として地におられた。人間であるイエスが父なる神を信じるのは当然と言えば当然ではないだろうか。

また私たちは、聖書の「神が唯一の存在である」ということを聖書が言うように理解しているだろうか。たとえば詩篇139編を読んでみてください。7節には「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れてどこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。・・・」と書かれている。神様の「唯一」の意味を私たちは知ることができるのであろうか。

それでは、逆にイエスはご自身のことを神であると言っていないだろうか。

私は、イエスはご自身が神であると聖書のいろいろなところで言っておられると思う。もちろん私だけでなく聖書の注解書などにはたくさん書かれているのを見ることができる。

ものみの塔やリベラル教会などではそのような個所を取り上げないで、神様に重大な罪を犯している。(長くなるので次回に続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-17 10:40:38 (548 ヒット)

イエス・キリストは誰だろうか。このことはイエス・キリストご自身が一番気にされたことであった。弟子たちにこのことについてしばしばお尋ねになったと福音書に書かれている。

それは弟子たちに対する質問であったし、また他の人々が何と言っているかということもイエス・キリストは質問された。

実は今現代においてもそのことが大きな問題であると思う。と言っても、そのことを探るための資料がどこか他にあるわけではない。
イエス・キリストについては、新約聖書の4つの福音書とパウロ以下の使徒たちの手紙や文書に十分書かれていると思われる。

しかし、そこに書かれていることの受け取り方によってその評価、つまり「イエス・キリストがだれか」の答えが分かれてしまうものと思う。

不思議なことがあるもので、ある人たちは聖書が神のことばであると認めながら、ある部分については認めない、ある部分については正しいと認めるというのである。

そのような人たちをリベラル派(自由派)、またその考えかたをリベラリズム(自由主義)と呼んで大きな問題となった時期があった。リベラリズムとは、自由主義つまり聖書を自由に解釈しようという考え方である。つまりおかしいことはおかしいと言おう、変なところは変だと言おうというまさにいまどきに合った考え方かもしれない。

しかしこの考え方、聖書の読み方にはとてもおかしいことがある。昔に起こった出来事を今それは変だという、この方法は、その時代に在ったことを無視している。いや昔の記述を今批判して裁判にかけるのだ。それが神のことばであれば、なおさらそのような自由というものがあるのだろうかと思われる。

ところがこれが以前は流行したのだ。キリスト教会の中で半分以上の人たちがそのような考えを持った人たちがいたらしい。一般信徒ならまだしも多くの教師たる者、牧師たるものがそういう考えを持ったと言う。

いまどきは、もうすでに解決がついたように思っていたけれども、逆にその考えは内にこもって真に聖書を神のことばと考える人たちの中に紛れ込んできているように思われる。

まさにキリスト教界のなかにあってもそのようなことがあるように思われることは非常に残念である。

しかし私がもう一度このリベラリズムについて学んでいたとき、これはそのことについていつも悪口を言っている「ものみの塔」エホバの証人の考えかたそのものであることを発見したのは大収穫であった。

そしてものみの塔統治体は、その考え方を聖霊の経路としていかにも新しいものであるかのように「ものみの塔」などの出版物で紹介するのである。
一方リベラリズムは、それをいかにも科学的な考え方であるかのように発表するように見える。

特にイエス・キリストについての考え方についてはっきりしているように思われる。イエス・キリストは、神であるかということについてと、イエス・キリストの業績、成し遂げたことについてである。(この項続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-16 15:55:55 (1523 ヒット)

主なる神様、み名を崇めます。

どうぞエホバの証人を憐れんでください。彼らはあなたのみことばよりも、その注解者であるエホバの証人統治体の注解を正しいものとしてものみの塔に従っています。

それは同じように見えてまったく異なるものですが、彼らエホバの証人はそれに気が付くことがありません。そしてその異なるメッセージを正しいものとして統治体の指導の下で他の人たちに配布宣伝しています。

どうぞ彼らエホバの証人をお赦しください。それが間違っていることを知らないでしているので、どうか赦してください。彼らは自分で知らずににせ預言者の仲間となってその援助をしてしまっているのです。

聖書によれば、間違ったことを宣べ伝えれば死をもって償わなければならないのですが、どうか彼らは知らないでしていることですのでお赦しください。むしろ正しいことをしていると思っています。どうぞ憐れんで早く気が付かせてください。

彼らはそのようにして他人に聖書に書かれていないことを宣べ伝えるばかりでなく自分も神様の救いに入ることができません。

どうか神様、イエス・キリストのみ救いを受けることができますように助けてください。

イエス・キリストのみ救いは、ものみの塔の伝道奉仕をすることにあるのでなく、イエス・キリストの十字架のあがないが自分のためのものであると信じることにあることを彼らに教えてください。

そして彼らが1軒1軒をまわるというつらい伝道奉仕は、滅びからの救いにならないものであることを知ることができますように。

いくらものみの塔の伝道奉仕をしても喜ぶのはものみの塔統治体であり、神様(エホバ)ではありません。そしてそれはハルマゲドン=世の終わりにも滅びからの救いとはならないことを教えてください。

どうぞ神様、エホバの証人がこのことを一刻も早く知ってエホバの証人の組織から出ることができますように。そして神様(エホバ)が用意されたイエス・キリストのみ救いに入れてくださいますようにお祈りいたします。

 この祈りを私たちの主イエス・キリストのみ名によってお捧げいたします。アーメン。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-07 15:37:04 (447 ヒット)

信じることがとても大事なことであることをイエスはことある毎に弟子たちに言われた。そしてただ大事なだけではなくどうしても必要なことであることを言われた。

 これは一足早いイースターの出来事、イエスのよみがえりの記事から学んでみたい。

 四福音書のうちマルコの福音書は、一番短いものであるが、また一番古いものだとも言われている。そのなかでイエスのよみがえりの記事は生き生きとその状景を伝えている。

 このマルコの福音書によると、最初にイエスが姿をあらわされたのはマグダラのマリヤにであった。マルコの福音書16章10節から見てみよう。

 マリヤはイエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんでいるところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、おすがたをよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。中略
しかしそれから後になって、イエスは、その11人が食卓についているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」そして「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」とイエスは言われた。

信じる者は救われて、信じない者は罪に定められて、罰を受けるということでしょう。

 信じると言っても、何でも信じればよい、イワシの頭も信心からというようなものではないことは当然である。この十字架につけられたが、よみがえって今でも生きておられるイエス・キリストを信じることによって私たちは救われるとイエス・キリストは言っておられる。このことを私たちは本当に信じているだろうか。(この項続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-01 15:22:17 (565 ヒット)

神はどうして人間を自動的に神様の定めに従うようにお造りにならなかったのだろうと時々考える。そうすれば神様のみことばの意味を考えたり、従うことができなくて苦しんだりしなくて済んだのではないだろうか。

いつもは軽く考えたりしているけれどその疑問が真に身に迫ってくることがある。

 イエス・キリストは神様からある使命を受けてこの世に下って来られた。たぶんその使命は、バプテスマのヨハネによってバプテスマを受けたときにははっきりしていたのではないだろうか。

 マタイの福音書にはイエスがバプテスマを受けるとすぐにサタンの試みを受けたことが書かれている。

 これはイエスがその使命をはっきり知っていた時その緊急性を知ることができるのではないだろうか。

 イエスは神のみこころをこの世の人々に知らせまた人間の問題の解決をもするために神によって遣わされてきた。人間の問題の緊急性はアブラハムのソドムとゴモラの滅亡に近かったのかもしれない。

 しかしそれなのに神はイエスを人間として地上に送られたこと。そのことによって人間を救おうとされたこと。

 神は人間を救うためにはイエスを送るよりもっと効果的な方法があったのではないかと世の知者は考えるであろう。とパウロは汽灰螢鵐反佑悗亮蟷1章で言っている。

 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人間よりも強いからです。


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