投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-07-19 11:57:29 (782 ヒット)

聖書は、神のことばである。とエホバの証人は認めている。キリスト教福音派も同じように「聖書は神のことばである」と認めている。しかしそこから先の考えはエホバの証人の教科書ともいうべきものみの塔の考えと福音派の考えは違う。

本来同じこと(「聖書は神のことばである」)を考えているのだから、同じことを考えてよいはずである。どうして違ってしまうのか。

これは読んでいる聖書が違うのではないかという考えがある。たしかに彼らの読んでいる聖書は、公認された聖書ではない。彼らが真剣にヘブル語、ギリシャ語の原文から訳したものであると主張しているが、それはどうかわからないが、聖書学者が詳しく調べれば違いはたしかに在る。多分重要な個所の誤訳も発見されるはずだ。

だが、浅学菲才のわたしからみると、大きな意味の中ではほとんど変わりがないように思われる。

それなら何でこんなに教理が違うの?と誰でも思うだろう。どれだけ違うかとお尋ねならば、先ほど出た彼らの教科書「ものみの塔」を読んでみていただきたい。

最も大きな違いは、イエス・キリストが誰かということである。キリスト教の名前が示す通りクリスチャンはイエス・キリストを神の子と考え、三位一体の子なる神であると考える。イエス・キリストは私たちの救い主とかんがえる。

しかし彼らエホバの証人はそのようには考えない。イエス・キリストは神の子であることは認めるが神ではなく、父なる神との三位一体の神ではない。イエス・キリストは罪を赦すが、アダムの罪だけを赦すのであって私たちのその後の罪は自分で赦してもらうために努力をしなくてはならない。(どんな努力かは知らない。)などなど、聖書を読んで教会で教えてもらった教理がことごとく覆されるのだ。

なぜこのような解釈になるのか。原因は、はっきりしている。ものみの塔の編集者はエホバの証人統治体である。そしてエホバの証人はその統治体を頂点としたヒエラルキーのもとに置かれており、統治体は聖霊の経路!であり、神の忠実な奴隷級!であるとの信仰があるのだ。その忠実な奴隷級!の聖書の読み方が正しい読み方であるという信仰も容易にそこから導き出されるのだ。もちろんこの信仰つまり統治体が聖霊の経路であるという考えに何の証拠もないのだが、、、却って統治体はにせ予言をした者たちであり彼らは神に忠実な召使どころか逆にサタンの召使いと言った方がよいと私は思っておるのだが。

彼ら統治体は、聖書の読み方と称して都合の良い箇所を引用して自らに都合の良い結論に導いていく。そしてそのように読む読み方が彼らエホバの証人にとって正しい読み方=聖霊に導かれた読み方なのである。それが「ものみの塔」その他彼らが出版する書籍に書かれているわけである。そしてその引用箇所は旧約聖書から新約聖書まで及んでいる。そのことによって彼らエホバの証人は聖書全巻から読んでいるから安心だと言っているのである。ほんとうにいい加減としか言いようがない。

聖書は66巻の小文書によって成立している。その全体が聖書である。一つ一つの文書が神のみ心を表しているのであって、その中の一句一句が必ずしも神の御心を表しているのではないと思う。もちろんその中には一句が代表してみ心を表すと言ってよいものもあるかもしれないが、、、

そこでエホバの証人に提案をしたい。それは、たとえば「ヨハネの手紙第1」を読んでものみの塔が言っていることと調和するかどうかを考えててみることである。それで調和するのであれば彼らの聖書の読み方はあながちまちがっているとは言えないことになるだろう。はたしてそうなるか。実験してみたいものである。

どなたか、いや、エホバの証人自身が実験してみるのが一番良いであろう。
そしてエホバの証人よ、勇気をもって神のみ心を知ってください。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-07-05 00:42:20 (676 ヒット)

コーヒーの香りのしないコーヒー屋に入った。その店はいかにもコーヒーがおいしそうな店構えをしていた。コーヒーの木の写真が貼ってあり、コーヒーが如何にも今入荷したというような、コーヒー豆を入れる袋などが積んであった。しかしふしぎなことにコーヒーの香りはしていない。それでもコーヒーを注文すれば香ばしい香りを立てておいしいコーヒーが出てくるだろうと期待した。コーヒーがサーブされた。確かに濃いこげ茶色の温かい液体がカップに入って出て来た。しかし驚いたことにこのコーヒーと称する液体にもその香り・・・香ばしいあの香りがしないのだ。私は仕方なしにその生暖かい黒に近いこげ茶色の液体を飲み干した。コーヒーの味はしなかった。

ものみの塔を勧めて歩くエホバの証人という人たちがいる。それは聖書に書かれている神をエホバと呼んで、エホバが聖書の中で言われているということを記事にしている。読んでみるとたしかに聖書の引用があり、聖書の神をエホバと呼び、イエス・キリストの記事もある。

しかしそれには、香ばしい聖霊の香りはしない。聖書の香りがしない。神の愛やイエス・キリストの愛が語られていない。代わりに言われているのは、エホバの証人どうしのおごり合うこと、また長老や監督うやまってその言うことにしたがうことなどなど。聖書の引用はあるがイエス・キリストの謙遜のかけらもない。聖書の引用はすべて彼らの組織にしたがうために用いられている。

コーヒーの香りのしないコーヒー屋の方がまだましである。300円かそこらを無駄にしたと思えばよいのだから。ものみの塔はそうはいかない。神の名をかたって言われているその言葉に従うことは何を意味するのだろう。それはにせ預言者のことばに従うことを意味する。にせ預言者に従う者たちエホバの証人は悪魔と同じに裁かれるにせ預言者と同罪になってしまうのだから。

もし彼らエホバの証人が裁きにあうとしたらどうなるのだろう。彼らは他の人たちには一生懸命裁きの時を説きまわっているが、彼ら自身も裁きに遭うことを忘れているのではないか。それとも統治体のおだてに乗って彼らだけは別だなどと思いあがってはいないだろうか。

パウロと同じように、知らずにしていたことだから赦されるということになるのだろうか。パウロは自分が間違っていたとはっきり悟り悔い改めたのである。エホバの証人も裁きの時が来ていない今なら、まだ間に合うはずである。早く悔い改めて、神を信じ、イエス・キリストを信じなさい。そうすれば聖書に書かれているように聖霊があなたに下り全ての事を教えてくださる。

ものみの塔が何を言っているかではなく、神が、イエス・キリストが何をおっしゃっているのかをよく聞いてください。何によって?と聞きますか。

もちろん聖書をものみの塔関係の文書を参考にしないでそのまま読んでください。「聖書は神の聖霊によって動かされた人たちが書いた」と聖書にも書かれている。聖霊によって書かれたのだから、間違いないのである。人間のことばで書かれているのだから、人間がすなわちあなたがそのまま読んで理解できるのである。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-06-29 11:49:31 (741 ヒット)

エホバの証人がよく自慢げに、またいかにも正しいことをやっているという感じで言うことは「私たちは聖書全巻から考えている」ということだ。ものみの塔が全巻を読んで、神のみ心を知っていろいろなことを言っているならば、それはとても良いと思う。
しかしそれはキリストを信じる私たちクリスチャンもそのことのために「み心に従いたい」と願っているわけで、それならば聖書の読み方も同じようになるはずである。

しかし実際にはそのようにはなっていない。私たちが聖書から聞いていることとまったく違ったことが次々に出てくる。
これはどうしたことだろうか。

何故かといろいろと考えた結果、次のように考えるとその理由がわかってくるように思う。
それは、彼らエホバの証人統治体は、ヨブ記の冒頭の神さまとサタンとの対話などから自らストーリーを作り出し、それに合わせて聖書の文章を再構成しようとしているのだ。
(ヨブ記の冒頭をぜひ読んでみてください。ヨブ記の中のサタンと神様の対話はその中で結末がついている。)


彼らの聖書の全巻から考えているということは、このことなのだ。この再構成をもっともらしくするためには、そのストーリーにあわせて、聖書の文句を引用する必要がある。それは聖書を最初から順序良く引用することでは達成できないからだ。

聖書には大きな流れがある。最初から順々に読んでいけば自ずから理解できるはずなのであるが、それでは彼らにとって都合の良いストーリーにはならないということだ。

だから彼らの出版物を読んでも結局は彼らの主張を読むだけで聖書を読んだことにならないことは言うまでもない。(この項おわり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-06-23 05:31:59 (1257 ヒット)

エホバの証人は、真の意味で「エホバ」の証人であるか疑わしいと私は思う。何故なら彼らはエホバの教えに従っていると思えないからである。

彼らはモーセの十戒とものみの塔の教えとどちらを大事に考えているだろうか。

彼らは、「あなたの父と母を敬え」というモーセの十戒の教えと長老または巡回監督の教えとどちらを優先するだろうか。
または会衆から仲間はずれにされるのと「あなたの父と母を敬え」の教えとどちらを大切にするのだろうか。

「エホバ」の証人であれば「エホバ」の命令すなわちモーセの十戒のほうを守るためにユダヤ人がしたように必死になるはずだ。

しかし彼らエホバの証人は、エホバの命令よりも長老または巡回監督の教えを大切にするのではないだろうか。
さらにその会衆での評価を失うことを最も恐れるのではないか。彼らはエホバの証人団体から離れることが何よりの恐怖となっているようだから。

そう、彼らエホバの証人は、結局エホバを恐れているのではなく、むしろ「エホバの証人」団体を恐れているということなのだ。
これは聖書からいえば、つまり彼らエホバの証人は恐ろしい偶像崇拝におちいっていることになるのだ。

それでも彼らは、「私たちはエホバを恐れている」というかもしれない。まったく反省能力を失っているからである。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-06-19 06:03:13 (757 ヒット)

エホバの証人は、聖書全巻から教えをくみ取るなどときれいなことを言っているのだが、実際は自分たちが強調したいところだけを取り上げてそれ以外のところには言及しないことによって、聖書に目隠しをしているのだ。これは彼らの言うことを聞き、ものみの塔などを読んでみればすぐにわかることだ。

中でもひどいことはパウロの手紙、たとえばローマ人への手紙やコリント人への手紙などクリスチャン全員が救いの教理として尊重し読んでいるものを、彼らは『霊によって油注がれたクリスチャンのために書かれた』と称するのだ。

ではそれ以外の信者のことを何と言っているかというと、「神の僕」と言っているらしい。(日ごとに聖書を調べる2012)

それでは「霊によって油注がれないクリスチャン」というのは存在するのかと私たちは考える。聖書の使徒の働きで異邦人(ローマ人)ではじめてキリストを信じたとされるコルネリオにさえ油(聖霊)が注がれたのに。

このように「クリスチャン」を、キリストを信じる者を2つ?に分けるというのは聖書に書かれていることなのか。何を以てそのように分けることができるのか。

これは彼らの頭には黙示録にある14万4千人があるからに違いないと思うのだが。この14万4千人は救い主と信じる霊的イスラエルであり、実数ではない。またイエス・キリストを信じる者そのものである私は信じる。

このようにして彼らエホバの証人統治体は聖書に目隠しをしイエス・キリストの福音を聖書とは異なるものとしているのだ。

どうか、神様、彼らの目を開いて彼らが何をしているのか、神に従っているかどうかをハッキリ見える者としてください。そして一刻も早く手を差し伸べておられるイエス・キリストを信じ、福音を信じて救いを受け入れるものとしてください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。


« 1 ... 36 37 38 (39) 40 41 42 ... 49 »