投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-08-31 11:38:49 (685 ヒット)

エホバの証人は、キリスト教だと最近とみに強調しているようだ。以前は、「エホバの証人」はキリスト教ではないことを売り物にしていたのに。なぜ今キリスト教だと主張するのだろうか。多分かつてフランスでカルト団体であることが証明されて、宗教でさえないことを理由に、収入金額、ばく大な信者からの拠金に税金がかかることになって、急きょキリスト教の仲間に入ることにしたのであろう。

しかし彼らがいくらキリスト教の仲間だと主張したとしても、その中身は変わらずカルト団体のままのようなのは本当に残念である。彼らが、悔い改めて本当にキリスト教の仲間になってくれたらよかったのにと思う。残念である。

エホバの証人が、いくら自分たちのことをクリスチャンと言ったとしてもそれでクリスチャンではないのは、イソップ童話ではないが、カラスがクジャクの羽をつけてクジャクだというようなものであろう。

ある人はこのように尋ねるかもしれない。『「エホバの証人」は、聖書の神エホバを信じています。そしてイエスが神の子だとを信じています。それならエホバの証人はキリスト教団体だし、エホバの証人はクリスチャンだと言ってどこが悪いのですか。あなたがたキリスト教徒も同じ聖書の神とイエス・キリストを信じているのではないですか。それならどこが違うのですか。』

今まで、このブログの中で、エホバの証人の教えと聖書の教えとの違いを書いてきたので、繰り返しになるかもしれないが、その違いについてもう一度書いておきたい。

それは、彼らがキリスト・イエスをどのように考えて、信じているかということである。聖書を率直に読めば同じ見解になると思うのだが、彼らはそのように読まないで自分に都合よく読んでいるから異なる見解となってしまう。

彼らはイエスは神の子だと言っている。神の子は神ではないというのである。だからもちろん三位一体の神であることも否定する。そしてイエスは、エホバの証人の模範であって、エホバの証人はその追随者であるという。つまりエホバの証人はキリストの追っかけだ。だからエホバの証人はイエスの命令に従うという。そしてエホバの証人の従うべき命令は「神の王国が来た。いや来るという福音を知らせて回ることだ」という。それも一軒一軒を訪問して回ることだというのだ。

しかし、本当にイエスはこのようなことを信じる者に対して命令し、そうすれば幸福になれると言われたのであろうか。続く


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-08-09 12:01:45 (873 ヒット)

ものみの塔20120601には、もう一つ気になる箇所がある。それは(読者の質問…)欄である。読者の質問だからと言って侮ってはいけないのである。彼ら統治体はこのようなところを用いて重要なメッセージを発信している場合が多いのだ。
この読者の質問は、「エホバの証人はなぜ戸別伝道をするのですか」がテーマである。エホバの証人の代名詞と言ってよい戸別訪問がテーマなので期待させる。
彼らはまずマタイ28:19,20を引用してイエスキリストの宣教大命令によってすべてのクリスチャンに当てはまることを強調する。そしてコリント第一9:16を引用してパウロの「良い便りを宣明しなかったとすれば、わたしにとってはわざわいとなるのです。」を引用して宣教命令が重要なことを訴えています。

しかし、イエスがおっしゃるところとパウロが言っていることは微妙に違っていることは皆さんお気づきでしょう。その所を彼らは交互に述べていて全く同じことと思わせようとしている。伝道することは重要であってもその内容が違えば全く異なるものとなるのは当然だ。パウロがここで言っている良い便りとは何だろう。
この手紙の少し前を見てみよう。
(コリント第一 1:22-23) 22 ユダヤ人はしるしを求め,ギリシャ人は知恵を求めます。23 しかしわたしたちは杭につけられたキリストを宣べ伝えるのです。これは,ユダヤ人にとってはつまずきのもとであり,諸国民にとっては愚かなことです。
そしてパウロは次のようにも言っている。(コリント第一 2:2) 2 わたしは,あなた方の間では,イエス・キリスト,しかも杭につけられた[キリスト]以外には何をも知るまいと決めたのです。

ここからわかることは、パウロはキリスト以外は何も知ろうとしないほどに、イエス・キリストを真剣に宣べ伝えようとしていることだ。

ものみの塔が言っているイエスの命令とはなんだろう。(読者の質問…)には、以下のように書かれている。
「今日のエホバの証人も、そうするように努めており、イエスが伝えたのと同じ、「天の王国」についての知らせを伝えています。・・・」と言ってマタイ10:7『7 行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい。』を引用している。

このところでイエスがおっしゃっているのは、まだご自身が十字架につけられる前である。なので、このような表現になっていると思われる。だが、イエスご自身も実はご自身について「わたしが天国の門である」
とか「わたしが道であり命であり真理である」とか 54 わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。(新世界訳聖書ヨハネ 6:54)
などとご自身を信じる者がみ救いを受けることを、十字架以前にすでに述べておられるのである。

そしてイエスは十字架にかかられた後よみがえって弟子たちに言われた。
「8 しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。(新世界訳聖書)
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(新改訳聖書)

「わたしの証人となるでしょう。」=イエスが救い主であることを証ししなさい。ということです。

パウロも、イエスご自身も「イエスが救い主である」と異口同音に言っているのである。「ものみの塔」はその聖書が言っていることを、イエスはエホバが送ったのだからエホバを宣べ伝えることはイエスを伝えるのと同じだなどと強引に捻じ曲げて、エホバを伝えさせており、又更に伝えさせようとしているのだ。

エホバの証人統治体は、更にエホバの証人をも、自分たちをも欺き、イエスが救い主であることに目くらましをかけて神の用意された救いをないがしろにしているのである。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-08-06 22:54:08 (696 ヒット)

「聖書の内容が調和している」とは、聖書を神の言葉と認める神学者や信じる人たちがすべて認めるところだ。そしてこの「ものみの塔」2012年6月1日号もそのことを認めているらしい。それでは彼らは、どのように聖書の内容が調和していると言っているのかを見てみよう。大急ぎで結論を言ってしまうと、彼らはとても特異な認め方をしているとしか思えない。ものみの塔だけを読んでいるエホバの証人各位は、当たり前、当然と思っているのかもしれないが、この考え方、認め方は非常に特異で、普通に考えると語呂合わせとしか思えないような認め方をしている。

簡単に言うと、たとえば胤(たね)と書いてある箇所を突き合わせて一つのストーリーを作ってしまうという具合だ。単に彼らエホバの証人統治体は「胤」つながりで聖書を解釈しようとしているのか。それともそこには何かの悪意があるのか。意味があるのに意味を認めようとしないことは悪意があるとしか言えないかもしれない。

ここには、以下のような箇所の聖句が引用されている。
創世記3:15そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」。(新世界訳)
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(新改訳)
*ここで女の「胤」または「子孫」は人類の胤または子孫は、イエス・キリストと言われている。イエス・キリストは将来十字架に就いて命をささげるが、そのことによってサタンの頭を砕く。つまりサタンの呪いから人間を救って、サタンに致命的な損害を与えるのだ

創世記22:17~18
*これはアブラハムの召命の場面である。そして「あなた」とは、アブラハムであり、胤または子孫とはアブラハムの子孫のことである。

創世記26:24
*ここであなたの胤または子孫とは、アブラハムの子イサクの子孫のことである。イサクもアブラハムと同様に祝福して子孫を増やしてくださるとエホバは言われる。

創世記28:14
*ここで「あなたの胤または子孫」とは、ヤコブの子孫のことである。エホバはヤコブの子孫もアブラハムと同じように祝福し子孫を増やしてくださる。

サムエル第二7:12
*ここでの「あなた」はダビデである。それで彼の胤または子孫は、単なる子孫ではなく、特別な子孫イエス・キリストを指していると言われている。メシア予言である。
同じ胤または子孫でもここでの用い方は、今までとは違っているはずだが、あまりそのことについての記述はない。

『それから1000年後に使徒パウロは、その胤がイエスとイエスが選んだ弟子たちの一団から成ることを説明しました。』とものみの塔は続ける。そして引用箇所はローマ1:1~4、ガラテア3:16,29である。サムエル第二7:12では単数でありイエス・キリスト一人を指すかと思いきやなんとイエスとイエスが選んだ弟子たちの一団から成るとものみの塔は言っているのだ。
ローマ1:1~4 イエス・キリストの奴隷であり,使徒となるために召され,神の良いたよりのために分けられたパウロから― 2 その[良いたより]は,[神]がご自分の預言者たちを通して聖なる書の中にあらかじめ約束されたもので,3 [神]のみ子に関するものです。その[み子]は,肉によればダビデの胤から出ましたが,4 聖なる霊によれば,死人の中からの復活により,力をもって神の子と宣言された方です。(そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストで,(新世界訳)
1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
1:2 ──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(新改訳)

ガラテア3:16,29
16 さて,その約束はアブラハムとその胤に語られました。それが大勢いる場合のように,「また[多くの]胤に」とではなく,一人の場合のように,「またあなたの胤に」と述べてあり,それはキリストのことなのです。
29 さらに,キリストに属しているのであれば,あなた方はまさにアブラハムの胤であり,約束に関連した相続人です。(新世界訳)
3:16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。
3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。(新改訳)

ここガラテア3:16で、聖書は『その方は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。』と言っている。約束は、アブラハムの子孫ではなく、キリストによるということはこの箇所にもはっきりと書かれている。この箇所からその胤つまり子孫が「イエスとイエスの選んだ弟子たちの一団」と読めるのだろうか。ここでものみの塔が言っているのは、創世記3:15に書かれている「胤つまり子孫」が「イエスとイエスの選んだ弟子たちの一団」だということだ。パウロは自分たちのことをイエスの奴隷と言っているが、イエスと彼の奴隷とが同じ集団を作ると言っているのではないか。こんなことがありうるのだろうか。ここで少し注意したいことは「イエスの」と言っていることだ。普通私たちはイエス様のことを単に「イエス」とは言わない。イエス・キリストと呼ぶのではないだろうか。キリストとはヘブライ語メシアのギリシャ語訳で救世主という意味だ。胤また子孫という場合はこの「キリスト」を当然つけるべき個所のはずだと思うが、ここは「イエスとイエスの選んだ弟子たちの一団」とものみの塔が書いているのはキリストの称号が邪魔なのであろう。イエス・キリストと書けば弟子たちと同じ個所に書くことはできなくなるからだ。

彼らが言いたいことは、聖書が言っていることを無視して、イエスは彼らと同じ!?エホバの証人だという主張だ。そうすると彼ら統治体を信じることによって救われるという彼らの一番言いたい結論になるのだ。というのは、イエスが神の子でイエスを信じることによって私たち罪人の罪が赦されて救われる(もちろん聖書にはそのように書かれているのだが)ということになると、彼ら統治体の出番がなくなってしまうからだ。

もちろん彼ら統治体の出番はなくてよいのだ。聖書に彼らエホバの証人が人間の救いに関わるなどと言う記述はまったくない。しかし彼らはそこに割り込みたくて仕方がないのだ。そのことによって神が定めたイエス・キリスト、救世主を引きずりおろし、彼ら統治体がそこに割り込むことを考えているとしか思えない。まさに人間の牧師が神に代わって人の罪を赦すことができるなどと考えることと全く同じことなのだ。そのようにして彼らは神の子キリストの座を窺っている。これこそキリストの十字架によって頭を踏み砕かれたサタンの残骸のまぼろしだ。

しかしエホバの証人はその残骸のまぼろし・サタンの末=統治体の言うことを聖霊の経路などと言って嬉々として従っているのだ。
よく考えてみよう。誰であれ人間が神に対して犯した罪を赦すことができるだろうか。人間が神に対して犯した罪を赦すことができるのは、神ご自身だけである。神ご自身が独り子イエスを天から遣わしてくださり、イエスが人間に代わって十字架について人間の罪を贖ってくださったのだ。

もう一度繰り返そう。誰であれ、パウロであれ、ペテロであれ、どんな弟子でも、どんなものでも、神ご自身に代わって人間の罪を赦すことはできないでしょう。ましてエホバの証人統治体が神に代わって人間の罪を赦すことなぞできるはずはない。そのようなことをたくらむ者がいるとすれば、それはイエスの十字架によって頭を砕かれてしまったサタンの幻影でしかないでしょう。

このものみの塔には結論としてこう書かれている。
『多くの成員から成るこの胤が悪魔を滅ぼして人類を救うのです。』


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-07-28 12:02:37 (780 ヒット)

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
(ヨハネの福音書 5:39 )

「ものみの塔」2012/6/1号は、また聖書について書いている。その題は「聖書…とてもユニークな本」となっている。彼らものみの塔統治体が聖書をどのように考えているかを簡潔に書いているので、「エホバの証人」を知ろう、救おうと思っている人たちにはとても参考になると思う。

簡単に内容を言うと聖書の性質が初めに書かれている。まず「聖書は単なる普通の本か?」という問いかけがあって、文学作品の一つではないこと、数ある聖典の一つではないこと、神話を集めたものでもない。聖書は、“神の言葉“であり、そのような本は他にない。とまとめているが、ここまでは皆さんに納得できると思う。そして5つの特色があるとしている。それは〕存世垢戮得就してきた∋房造任△蝓⊃析辰任呂覆ぁ2奮愿に正確。
ここまでは一応聖書の性格が示されているのでそれほど反論するところはないように思われる。

問題はぁ崙睛討調和している。」である。彼らエホバの証人統治体はどのように聖書は調和していると考えているか、聖書の見方読み方が表されているからである。
「その一例」として書かれていることが重要である。
創世記3:15にはサタンの頭を踏み砕く女の子孫一人のことが書かれている短い記述がある。
(3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。)
彼(女の子孫)は人類に罪を犯させたサタンに致命的な打撃を与える(おまえの頭を踏み砕き)と書かれている。
またおまえ(サタン)は彼のかかとにかみつく。つまり致命的でない傷を負わせる。この女の子孫=胤(タネ)は、イエス・キリストであり、致命的でない傷というのはイエス・キリストの十字架による死であるというのが伝統的見方である。「かかとにかみつく」は、この死によって彼は決定的なダメージを受けるわけではない。むしろ彼(=胤=イエス・キリスト)は、その身代わりの死によって人間の罪を完全に赦しサタンの呪いから人間を解き放つことができたのである。

それは、すべて神の一方的な御業である。人間はどこにもその御業への功績はないのだ。預言者ナタンも神の御告げをきいただけであり、使徒たちにしてもそのことを告げ広めるために用いられただけである。

そのことを考えれば、以下「その一例」に書かれていることは何だろうと思わざるを得ない。
「それから1000年後に使徒パウロは、その胤がイエスとイエスの選んだ弟子たちの一団から成ることを説明しました。(ローマ1:1~4、ガラテア3:16、29)そして最後に、西暦1世紀の終わりごろ、聖書巻末の書の中で、その胤の成員たちが地上でイエスについて証しし、天によみがえらされ、イエスと共に1000年間支配する、と預言されました。」

ただ一人であった女の子孫(=胤)がいつの間にか「その胤の成員たち」となって複数扱いされている。これは、マタイの福音書の20章のたとえ話忠実な奴隷を複数「奴隷級」として彼ら統治体に模したやり方とそっくり同じだましの手法である。
世の救い主はイエス・キリストただお一人であり、神が遣わされた方である。そして神に対して犯した罪の裁きからこの世を救うのは全能の父なる神が遣わされたイエス・キリストのみであり、それ以外ではないのである。

エホバを真実に証言しようとしているエホバの証人たち、だまされてサタンの手先に加担してはいけない。
彼らエホバの証人統治体は、「調和」の名を借りて巧妙に、神とイエス・キリストの功績を横取りし自分たちの手柄にしようとしているサタンの手先である。
彼らエホバの証人統治体は今やその正体を現したのである。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-07-26 19:29:34 (633 ヒット)

エホバの証人に、一つの質問をしてみよう。
『あなたは聖書を信じますか。それとも「ものみの塔」を信じますか。』と言うと、エホバの証人は、決まって、「どっちも信じています。」と言う。

そう、彼らエホバの証人にとって、聖書とものみの塔とは同じものなのだ。このことは、エホバの証人にとっても、エホバの証人を理解しようとしている人たちにとっても重要な事実だと思う。このことを忘れては、双方とも理解ができなくなってしまう。

ものみの塔は、これまで書いてきたように、エホバの証人統治体が聖書全巻から選んだ聖句を彼らエホバの証人に示してそれが彼らエホバの証人の聖書とみなされているのだから。だからエホバの証人は聖書を読んでいるつもりでも、そこにある聖書ではなく統治体によって選ばれた聖句によって組み立てられた「新・エホバの証人聖書」ともいうべき書物がここに造られているのである。

だから彼らエホバの証人は、逆に言えば、「聖書全巻」を読んでいるつもりかもしれないが、統治体聖句集=「新・エホバの証人聖書」を実は読んでいるのである。このことをエホバの証人自身も、エホバの証人を理解しようとする者もともに認識していかなければならないと思う。


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