投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-02 19:41:29 (470 ヒット)

クリスマスは、イエス・キリストのものがたりのように考えている人がいる。それはもちろんエホバの証人統治体が主張して、キリストの赤ちゃんの時はもうすでに過ぎ去ったので、キリストの誕生を祝う!?クリスマスは意味がないなどと言っているようだ。

 だが、本当にそのようなことだったのだろうか。前の投稿でも書いたのだが、実はこのクリスマスはイエス・キリストというよりも神さま(エホバ)の物語だったのではないかと強く思われる。
それはちょっと考えればわかることだが、統治体が主張しているように イエス・キリストは人間の赤ちゃんとして生まれたのだから意志はないのだ。徹底的に受け身の身なのだ。そのように取り計らったのは、間違いなく神様(エホバ)なのだ。
 
 それで神様(エホバ)はイエス・キリストを人間として受け入れさせるために、どのように気を遣い、気配りをしたか、(聖書を福音書を読めばわかることだが)もしわからない人がいれば知ってもらいたいし、また自分としては確認をして神に感謝をささげたいと思う。

 まずお母さんのマリヤさんについてだが、マリヤはそのころ15歳くらいだったのではないかといわれる。彼女はヨセフさんと婚約をしていた。ユダヤの慣習では結婚の前に婚約をある期間しなければならない。しかし婚約をしたからと言って、いまの日本のように乱れていなかったから肉体関係を持つことは許されていなかった。しかしもうすでに結婚と同じ法律的効果はあるそのような関係であった。

 そのようなマリヤとヨセフのいいなずけ関係の二人に神様は介入された。どのようにかというと、マリヤに聖霊の力がおおったのだ。具体的にはどのようなことかはわからない。聖書はそれ以上を教えてくれない。(マタイの福音書、ルカの福音書参照)

 神の御子であるから、普通の男女関係によって生まれるのでないことは理解できるであろう。

 しかしまだ肉体関係が許されないマリヤが妊娠したということはヨセフにとっても、またさらにマリヤにとっても耐えられないことが起こってしまったということだ。

 その時神様は、その当惑をよく理解して(もちろん神様だから当然ご存じだとは思われるが)神の使いを送ってマリヤに告知をする。「御使いは入ってくると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」そして、神からの恵みによって男の子を生みます。その子の名をイエスとつけなさい。と言う。(続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-29 19:55:30 (568 ヒット)

エホバの証人は、クリスマスをイエスが生まれた時のことをいつまでも考えていても仕方がない、意味がない、という理由でクリスマスを祝わないという。

 私は当初このようなエホバの証人のクリスマスを祝わない理由をあまり意味がないと考えていました。要するに単なるこじつけに過ぎないのではないかと。

 しかしこのことを繰り返し頭の中で反すうしてみると、彼らの神様に対する態度、聖書に対する態度、またもちろんイエス・キリストに対する態度が、このことの根本的な原因であることに気が付かされました。
 つまりどういうことかというと彼らエホバの証人は、あのエホバ神が独り子イエス・キリストをこの世に敵だらけのこの世に送ってこられたというのに、まったく喜びも、感謝も感じていないということだ。イエス・キリストは、人間としてこの世に入るためには、計り知れない神の心配や気遣いがあったということがこのクリスマスいや福音書の記事から伺われるのだ。

 神の子を宿したマリヤのこと、不倫ではないかと心配してマリヤを人知れず離婚させようとした父ヨセフのこと、マリヤを力づけたバプテスマのヨハネの母エリサベツ、イエスの誕生を祝った羊飼いと天使の軍団、東方の博士たち(天文学者)のこと、またイエスの誕生を阻止しようと暗殺者を差し向けたユダヤの国王ヘロデとその配下…神の子イエスの降誕を阻止するためには、サタンは手を尽くして妨害しようとしたことがこれらの記事から読み取れるのではないだろうか。

 しかしエホバの証人は、イエス・キリストを「神の子」と言いながら、真に神エホバが送られた神の一人子であることに感謝する気持ちはとてもないようである。

 以上のことからわかることは、彼らは「エホバ」の証人と名乗っているが、本当は「エホバ」の証人!とは言えないのではないか。聖書を「神のことば」であるとしながらも結局彼らにとっては、自分の意志を通すための便利な書物=自分らの権威づけのために用いる道具にすぎないものではないかと思われる。

 そうであれば、彼らエホバの証人統治体が聖霊の唯一の経路などと言っていることもとてもおかしいことに思われる。結局これも彼らの自分勝手な都合の良い意見を罪もない「証人たち」に従わせるためではないかということがこのことからもよく分かるのである。
(この項終わり)
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-26 21:23:38 (1983 ヒット)

エホバの証人がクリスマスを嫌うもう一つの理由がこのほど明らかになった。大げさに言えばこんなことになるが、クリスマスを祝わない理由としてこんなことを言い出している。

 それは、イエスはいつまでも子供ではない。だからイエス・キリストの降誕を祝うことは必要ではない。むしろばかげている。などというのだ。

 こんな理由は、全く意味のない理由であるが、どんな理由でもそのことを理由に組織の言うことならなんでも聞こうという意識があるのだから、このことも結構な理由になっているのだろう。

 確かにイエスが生まれたのは、2000年も昔のことだし、イエスは生まれてから33年で十字架につけられてしまったので、誕生を祝うのはおかしいと言えば言えるかもしれない。

 しかしこの誕生によって、また十字架におつきになったことによってどのようなことが起こったかということをよーく考えてみれば、私たちが何故イエス・キリストのご降誕を祝うのか、また祝わねばならないのかが分かるであろう。

 イエス・キリストが、お生まれになって以降、父なる御神からのみこころをどのように果たされたかを聖書から読んでいただきたい。

 ヨハネの福音書3:14にはこのように書かれている。
「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 父なる御神は、神を信じる者が罪によってけがれて裁きにあうことのないように御子イエスをこの世に遣わされたのだ。そしてそのためにはこの世に人間として生まれる必要があったということだ。

 神は、イエスを人間として生まれさせるためにどれだけのご配慮があっただろうか。聖書にはそのことが、父なる神のご配慮がはっきりと記されていると思う。(この項終わり)

 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-17 11:20:20 (636 ヒット)

直前の日記でも書いたのだが、クリスマスが近づいてくると、エホバの証人についての疑問がわきあがってくる。

 それはエホバの証人のクリスマス拒否症とでも言いたくなるような病的な症状のせいである。何故イエス・キリストをそんなに拒否するのであろうか。
 
彼らは全くイエス・キリストを否定しているわけではない。それが証拠にフランスでエホバの証人が「宗教」と認められたというので大喜びをしたのは、ただ税金が安くなるためだけではないだろう。

 フランスで何故エホバの証人を宗教と認めたかその理由はよくわからないが、信じる人を安心させることが本当に良かったことなのか実際わからない。
 
「イエス・キリスト」と宗教集団である「ものみの塔」が言っているとすれば、それだけでイエスはキリストであり、メシアであり、日本語でいえば救世主すなわち救い主だという信仰告白であるからだ。

 彼らエホバの証人は、本当にイエス・キリストを救世主、救い主と認めているのであろうか。まったくそうは考えられない。何故ならイエス・キリストの生誕を祝うクリスマスを全否定するからだ。

だから彼らエホバの証人は、似非キリスト教であり、聖書も自分では読めないカルト教団なのである。

 自分たちエホバの証人が宗教でありキリスト教であるというなら文字通りキリストを救い主として感謝し、イエス・キリストを私たち罪人の罪をあがなうために遣わしてくださった父なる神に感謝をささげるのが当然と言ってよいのではないでしょうか。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-09 14:40:42 (753 ヒット)

伝道者の書7章1節の後半の部分だ。
クリスマスが近づくと、エホバの証人の口からこの言葉が何回か出てくる。分かっている人は、またか!と言うだろう。

クリスマスは、イエス・キリストの生誕を祝う日だ。この聖書のことばを一つの根拠としてエホバの証人はクリスマスを祝わないという。
要するに聖書は生まれた日よりも死んだ日を祝うべきだと言っているから、誕生日を祝うことはしない。だからキリストについても同じだというのだ。

しかしこの言葉は永遠の真理として書かれたものではないだろう。続いてこう書かれている。
 
”祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が
それを心に留めるようになるからだ。”とある。

私たちが何で生きているのか、生きている意味を、つまり神の恵みをよく味わって生きるべきだということを聖書はこの箇所で言っているのだと思うが、みなさんはどう思いますか。

イエス・キリストは、神の子であるのに、神の在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6)そのような方が生まれた日を祝うのは当然のことではないでしょうか。

またイエス・キリストは神の前に人間の罪をあがなうためにお生まれになった方でもあるのです。
生まれないで死ぬことができるでしょうか。この点においても彼らエホバの証人は大きな過ちを犯しているのではないでしょうか。
(この項終わり)


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