投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-09 19:03:59 (663 ヒット)

エホバの証人は、救いを必要とするのだろうか。

もちろんアダムの子孫はすべて救いを必要とすると私たちは考える。なぜなら私たちアダムの子孫である人間は、生まれながらに罪びとであり、神の怒りを受けるものであるので救いを受ける必要があると考える。(人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように:へブル9・27)

しかしエホバの証人はどう考えているのだろう。彼らは自ら神が求める美徳を身に着けることができると考えているようである。だからイエスの模範に従うことによって神の赦しを受けることができると考えているらしい。

神の求める基準は聖である。(あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなた方自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と書いてあるからです。汽撻謄1:15〜16)

自分の力で、それが統治体の指導であっても、神さま(エホバ)が赦すようになれるのなら、イエス・キリストの犠牲は不必要となる。

彼らは、イエスの模範に倣って家から家へと奉仕(伝道)活動をすることによって赦しを受け、永遠のいのちを受けることができると考えている。だから彼らは統治体の指導がどうしても必要なのだ。

キリスト教の信者はどうなのだろう。聖書を読めばそのように読めると思うのだが、自分の努力では神様に従うことができない。しかしイエスの十字架の犠牲によって神様の赦しを受けることができる。そしてそれ以外には神様から赦しを受ける方法がないのだ。


そしてイエスによって私たちは神の赦しを受けて、救いに入り、神の国に入ることが許される。

この違いをどのように思われるだろうか。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-06 21:53:38 (709 ヒット)

エホバの証人は真のクリスチャンであるような「ものみの塔」が出たりして、本当に彼らはクリスチャンと言ってよいのかと一瞬思ってしまった私はほんとうにお人よしであった。

彼らが自分がクリスチャンであるなどと主張するのは、一にかかって家から家への伝道をしているということだ。そう、確かに見知らぬ家から家への伝道をすることは大変だろうと思う。しかし間違ったことを間違った動機で伝道したのであれば、一体誰がほめるであろうか。

間違った福音を伝えた者たちは必ず神からの罰を受ける。これはいくら私はキリスト教だと言ってキリスト教の教会に通っている人たちもそれについては同じである。エホバの証人と変わりない信仰をもっている牧師などは特に気を付けた方がよろしい。まず自ら悔い改めてイエス・キリストを信じることをしないのであれば、一番最初に罰を受けることが聖書(ヤコブの手紙)にも言われているから気を付けた方がよい。

まず聖書のみ言葉は自分に向かって語られていることをしらなければならない。自分は教会員に対して語るために聖書を読んでいるなどと思いあがっているのであればとんでもないことになる。誰も神の前に特権階級はいないことを自らに厳しく銘記すべきである。むしろキリストのしもべであるとの自覚があるなら自分に向かって語られていることは自明のことだろう。

話しがズレてしまったが、エホバの証人は聖書を読んでもそれはものみの塔を通して読んでいるので、全く聖書を読んだことになっていないのだ。ものみの塔が自分に都合の良い箇所をところどころ飛ばして取り上げるように、そのように彼らは聖書のみことばを読んでいくのである。まったくおそろしいことが起こっている。いくら重要な個所であっても、ものみの塔で取り上げていないところは飛ばして読む。言い換えれば読まないのである。いや、読むことができないのだ。声に出してもその意味を理解することを拒否する(としか思えない)。イザヤ書に『彼らは見ても見えず聞いても聞こえない』と書かれている通りのことが起きている。

彼らは聖書通読などと言って聖書を一つ残らず読んでいると言い張っているのだが、そのような読み方であれば何を読んでいるというのだろう。ただ眼を通しているだけということにならないか。聖書通読の良い点は、すべてのみことばを例外なく公平に読めるところだと思っているのだが、いくら読んでも特定の箇所しか目に入らない、また理解しないのであれば通読している意味は全くないと言ってよいと思う。

たとえばパウロの書いた重要な手紙の一つであるコリント人への手紙第一の15章を読んだとしようか。彼らはすらすらと読み進めていくが彼らの言わんとすることは28節、『しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自身に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためなのです。』この節を言いたいために15章のすべてを読むのだ。

15章の、その前には、たとえば3節、『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、云々』とあって、パウロが最も大切な事としていることにも、目を留めないのだ。このあとに死者の復活についての記述(12節以降)があり、キリストの初穂である記述もある。これも目に留まらない。

彼らはまさに「ものみの塔」という見えない牢獄に閉じこめられて逃げられない奴隷になっていると言っても過言ではないように思われる。

神様、どうかかれらがそのことに気づいて一刻も早くその檻から逃げることができますように上からの力をお与えください。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-23 11:16:57 (771 ヒット)

前項で、イエスはご自身のことを神に最も近い者であると言われたことを記した。もっとも神に近い者、このことをパリサイ人律法学者たちは神と等しい者としたと言っているのだ。

そしてさらにイエスは「人の子は安息日の主である。」と言われた。はじめてこれを読んだ方は「人の子」は、人間のことだから人間は安息日より偉い、だから安息日つまり現在の日曜日は何をしてもよいということかと気の早い人は考えたかもしれない。

しかしこのことを聞いたパリサイ人たちは、イエスを滅ぼそうと考えたと聖書に書いてあるのだ。これは普通ではない。何がそんなにパリサイ人たちを怒らせたのか。

安息日とは、今の日曜日ではないことを認識してください。安息日は、なんと神(エホバ)がこの全世界をお創りになったときに始まる。聖書の一番初めを開いて旧約聖書の創世記1章から2章3節をみてください。神が創造の業を終えて第7日目を休まれたことが書かれている。

そして安息日と聖書に初めて出てくるのは、出エジプト記16章であの有名な天からのパン、マナをイスラエルが食べたとき6日間マナが降ったけれど7日目には降らなかった。7日目は主が創造の業を休まれた日だからと言うのだ。その代り6日目には2日分のマナがふるので残しておきなさい。という。

そしてモーセが神からいただいてきた十戒にも『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。6日間働いてあなたのすべての仕事をしなければならない。しかし、7日目はあなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。』(新改訳聖書3版)
とある。

この律法がイエスの時代には、もっとこまごまとしたさまざまな制約となってその時代の民衆を苦しめた。「安息日は単なる儀礼的なものではなかった。」それを守らないことは神の選ばれたイスラエルであることを否定するとさえ考えられるものであった。

たとえばイエスの弟子たちがした収穫、脱穀することは禁じられていたし、火をつけること、火を消すこと、2文字を書くこと、2文字書くために消すことなどユダヤ人社会はこの律法を守ることによってがんじがらめになっていたようである。

その時イエスは『人の子は安息日の主である』と言われた。人の子とは人間の子であるが、イエスはご自身のことをそのように呼ばれた。

そういう環境にあってのこのイエスのことばはどれだけ大胆なものであるかを理解することができるのではないだろうか。イエスの周りを見渡してもだれもイエスの味方をする者はいない。何人かの弟子たちはいたが、もと漁師の子供たちであったり、下っ端の税務署の官吏であったり、だれもイエスを保護してくれるものはいない。

しかしイエスには自分の味方として、天の父なる神がおられたのだ。考えてみれば、これ以上に強い味方はないし、天にどころか宮=神殿よりも大いなるものとご自分を考えていたのだ。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-20 23:17:05 (515 ヒット)

マタイの福音書12章1〜8節にはイエスがご自身を誰と思っていたか書いてあるように思われる。

イエスと弟子たちは麦畑を通っていた。弟子たちはおなかがすいていた。それで他人の麦畑だけれど穂を摘んで食べ始めた。するとたまたま、そこにいたパリサイ人たちがイエスに文句を言った。「あなたの弟子たちが麦の穂を摘んで食べています」と。その当時他人の畑であってもおなかを満たすくらい麦の穂を食べるのは律法で許されていた。だからパリサイ人が注意をしたのは、その日が安息日だったからだ。

安息日に麦を摘んで実を取り出して食べるというのは労働にあたることで、律法で禁じられたことであった。

しかしイエスは、次のように反論した。.瀬咼任箸修力△譴亮圓燭舛呂なかがすいたとき、神殿に入って祭司しか許されない供えのパンを食べた。(ダビデは第2代の王で油注がれた者だが、わたしこのイエスはまさに救い主として油注がれた者である)
∈彁覆楼詑日なのに神殿で働くことは律法で許されている。(わたしこのイエスもそれ以上に神のために働いている者である。)
またそれ以上に、わたしこのイエスは、神に面会できるという神殿よりも大きなものだ。
と言われた。
では、なぜイエスは神殿より大きなものだと言うのだろう。
それは神はいつもわたしイエスのうちにおられ、またわたしイエスは神のうちにいるのだから。(ヨハネの福音書14:11「わたしが父におり、父がわたしにおられると私が言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」)

イエス・キリストは常に神の中に生きていたし、神はいつもイエスの中におられることを意識しておられた。イエスはご自身を神様とは違うと思っておられたのだろうか。このことからするとイエスと父なる神は非常に近いと考えていたと思われる。

そしてその後に神様が制定され守ることを命じられた「安息日」についてこのように言われた。「人の子は安息日の主です」と。(続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-20 09:54:52 (590 ヒット)

たとえば、イエスが十字架につけられた直接の理由は何だったかご存じだろうか。

それはパリサイ人や律法学者、また祭司長たちのねたみからだと聖書には記されている。

なぜパリサイ人たちはイエスをねたむのか。それはイエスが聖書について、また父なる神についてとてもよく知っていたからだ。イエスが来るまでは、パリサイ人たちが一番聖書のことについて知っていることになっていたので民衆は彼らを尊敬し思うままに彼らの言うことを聞いたからだ。

また更にイエスが神様を親しく知っておりご自身を神とひとしくしたりすることを敏感に察知して、冒涜罪の告発をしたのだ。パリサイ人や律法学者たちはその都度捕えようとしたり、石打の刑にしようとしたりした。

彼らは少なくともエホバの証人統治体やリベラル派よりもはっきりとイエスのみことばを理解したのだ。彼らパリサイ人たちはイエスと同時代に生きていたのである。なぜ2000年も後に生きているエホバの証人統治体やリベラル派の方が正しく理解できると言えるのか。その考え方の方が理解に苦しむのではないだろうか。

確かにイエスはご自身のことを神と等しく考えておられてそのように発言されたのだ。

その記述を昔の話で今では理解できないから信用できないと言えるのだろうか。それならイエスがエホバのことを私の神と言ったことも唯一の神と言われたことも信用できないことになるのではないだろうか。

イエスはまたエホバの言われたことを何度も修正されたように見える。これはエホバと同等の者しかできないことではないだろうか。以下に実例を記そう。(長くなるので次の回に続く)


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