投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-17 11:20:20 (615 ヒット)

直前の日記でも書いたのだが、クリスマスが近づいてくると、エホバの証人についての疑問がわきあがってくる。

 それはエホバの証人のクリスマス拒否症とでも言いたくなるような病的な症状のせいである。何故イエス・キリストをそんなに拒否するのであろうか。
 
彼らは全くイエス・キリストを否定しているわけではない。それが証拠にフランスでエホバの証人が「宗教」と認められたというので大喜びをしたのは、ただ税金が安くなるためだけではないだろう。

 フランスで何故エホバの証人を宗教と認めたかその理由はよくわからないが、信じる人を安心させることが本当に良かったことなのか実際わからない。
 
「イエス・キリスト」と宗教集団である「ものみの塔」が言っているとすれば、それだけでイエスはキリストであり、メシアであり、日本語でいえば救世主すなわち救い主だという信仰告白であるからだ。

 彼らエホバの証人は、本当にイエス・キリストを救世主、救い主と認めているのであろうか。まったくそうは考えられない。何故ならイエス・キリストの生誕を祝うクリスマスを全否定するからだ。

だから彼らエホバの証人は、似非キリスト教であり、聖書も自分では読めないカルト教団なのである。

 自分たちエホバの証人が宗教でありキリスト教であるというなら文字通りキリストを救い主として感謝し、イエス・キリストを私たち罪人の罪をあがなうために遣わしてくださった父なる神に感謝をささげるのが当然と言ってよいのではないでしょうか。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-09 14:40:42 (705 ヒット)

伝道者の書7章1節の後半の部分だ。
クリスマスが近づくと、エホバの証人の口からこの言葉が何回か出てくる。分かっている人は、またか!と言うだろう。

クリスマスは、イエス・キリストの生誕を祝う日だ。この聖書のことばを一つの根拠としてエホバの証人はクリスマスを祝わないという。
要するに聖書は生まれた日よりも死んだ日を祝うべきだと言っているから、誕生日を祝うことはしない。だからキリストについても同じだというのだ。

しかしこの言葉は永遠の真理として書かれたものではないだろう。続いてこう書かれている。
 
”祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が
それを心に留めるようになるからだ。”とある。

私たちが何で生きているのか、生きている意味を、つまり神の恵みをよく味わって生きるべきだということを聖書はこの箇所で言っているのだと思うが、みなさんはどう思いますか。

イエス・キリストは、神の子であるのに、神の在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6)そのような方が生まれた日を祝うのは当然のことではないでしょうか。

またイエス・キリストは神の前に人間の罪をあがなうためにお生まれになった方でもあるのです。
生まれないで死ぬことができるでしょうか。この点においても彼らエホバの証人は大きな過ちを犯しているのではないでしょうか。
(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-08 03:38:58 (485 ヒット)

ものみの塔は、いや、統治体はものみの塔を通して何よりも大切なのは神の国だと言っている。そして神の国を宣べ伝えると言うが、イエス・キリストに選ばれて異邦人の伝道に遣わされたパウロはイエス・キリストを宣べ伝えると宣言し、実際イエス・キリスト以外のことを糞土のように思うと言っている。

 マクグラスは、「パウロは、イエス・キリストの死と復活を宣べ伝えたが特に死について詳しく考えたようだ」と言っている。 

 そしてイエス・キリストを主とする教会は、カトリックもプロテスタントも例外なく、イエス・キリストの死と復活を想い出し、表す儀式、聖餐式やミサ、そしてその式文にそのことが銘記されている、と言っている。
 
 このことは使徒たちから始まって粛々と受け継がれてきたのであって権威があるという。

 自分に理解できないことは信じないというのが啓蒙主義の流れで、ものみの塔もその流れに属するわけだが、使徒たちはイエス・キリストにじっさい会ってその印象と教えを聖書に記した。啓蒙主義者たちが1000年も経過してのちにイエス・キリストについて言うことが何故使徒たちより正しいと言えるのであろうかとマクグラスは言っている。

 ものみの塔は、啓蒙主義者たちの系譜に属することはあっても、使徒たちの系譜には属していないようである。ふつうに考えてもわかるように実際に会った人は、実際に会っていないで文句を言う人より正しくその印象を伝えることができると思いますが、ものみの塔の統治体の方々は、またエホバの証人の方々はどのように考えますか。

あのトマスは、復活のイエスに会ったとき「わが主、わが神」と言って礼拝した。

その後イエス・キリストを信じる人々はイエスに礼拝をささげた
という事実。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-05 11:31:01 (564 ヒット)

東京の水は、「東京水」と呼ばれて売っていて、地方から来た人で買って帰る人もおられるらしい。でも東京のマンションに住んでいる人はなかなかそのようなきれいな水を飲んでいる人は少ないようだ。東京に住んでいるのに何故?と思う方もいるだろう。

 それは、マンションの給水の仕方にある。マンションでは、水を一時的に貯水槽に貯めておきそこから各戸に給水する。その時貯めてある貯水槽が思っているような清潔さを保つことができないことが原因である。貯水槽は一年に一回くらいの清掃をするようだが、その中にゴミがたまったり落ち葉が落ちていたり、ゴキブリが入りこんで死んでいたり、ひどい時にはドブネズミの死がいが浮いていたりでなかなか清潔に保つことが難しいからだ。

 しかし考えてみるときれいな水を水源から直接取り入れていないのは、マンションの住民ばかりではない。
エホバの証人の人たちもそのようなことをやっていて平然としているような気がするのである。

 きれいな命の水の水源である聖書から直接にきれいな水を飲まないでわざわざ「ものみの塔」や「めざめよ」などの汚れた水道管を経由して飲んでいる。エホバの証人は、
聖霊に動かされた人たちによって書かれた聖書を偽預言者を通して違ったメッセージを聞いている。

 エホバの証人の方にお願いしたい。聖書とものみの塔の記事とを比較してみてもらいたいのである。ものみの塔やめざめよによって聖書の記事がゆがめられていることがお分かりになるだろう。

 聖書からいのちの水を直接飲んでイエス・キリストの救いに預かろうではないか。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-25 18:29:02 (526 ヒット)

私たちはどのようにして神を知るようになるのでしょうか。

このような質問にはギクッとします。

そしてこの著者は続けてどのような方法で知ったかによって、その知識はおおかた決定されると言っています。

たとえば月の表面についての私たちの知識は、太陽光の反射によって知るものでした。それは大した量のものではありませんでした。しかし何十年かして月の表面から持ち帰られた物質によって詳しい調査ができたとき私たちの知識は格段に進歩しました。

しかし月が変わったわけではありません。

私たちはどのようにして神の知識を得たでしょうか。ものみの塔によってでしょうか。
聖書によってでしょうか。
あるいは漫画によってでしょうか。

私たちの知識のルーツを知ることは、ある場合には、そしてある意味では何にもまして必要なことかもしれません。
(この本の著者はアリステア、マクグラスです。)


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