投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-29 19:55:30 (483 ヒット)

エホバの証人は、クリスマスをイエスが生まれた時のことをいつまでも考えていても仕方がない、意味がない、という理由でクリスマスを祝わないという。

 私は当初このようなエホバの証人のクリスマスを祝わない理由をあまり意味がないと考えていました。要するに単なるこじつけに過ぎないのではないかと。

 しかしこのことを繰り返し頭の中で反すうしてみると、彼らの神様に対する態度、聖書に対する態度、またもちろんイエス・キリストに対する態度が、このことの根本的な原因であることに気が付かされました。
 つまりどういうことかというと彼らエホバの証人は、あのエホバ神が独り子イエス・キリストをこの世に敵だらけのこの世に送ってこられたというのに、まったく喜びも、感謝も感じていないということだ。イエス・キリストは、人間としてこの世に入るためには、計り知れない神の心配や気遣いがあったということがこのクリスマスいや福音書の記事から伺われるのだ。

 神の子を宿したマリヤのこと、不倫ではないかと心配してマリヤを人知れず離婚させようとした父ヨセフのこと、マリヤを力づけたバプテスマのヨハネの母エリサベツ、イエスの誕生を祝った羊飼いと天使の軍団、東方の博士たち(天文学者)のこと、またイエスの誕生を阻止しようと暗殺者を差し向けたユダヤの国王ヘロデとその配下…神の子イエスの降誕を阻止するためには、サタンは手を尽くして妨害しようとしたことがこれらの記事から読み取れるのではないだろうか。

 しかしエホバの証人は、イエス・キリストを「神の子」と言いながら、真に神エホバが送られた神の一人子であることに感謝する気持ちはとてもないようである。

 以上のことからわかることは、彼らは「エホバ」の証人と名乗っているが、本当は「エホバ」の証人!とは言えないのではないか。聖書を「神のことば」であるとしながらも結局彼らにとっては、自分の意志を通すための便利な書物=自分らの権威づけのために用いる道具にすぎないものではないかと思われる。

 そうであれば、彼らエホバの証人統治体が聖霊の唯一の経路などと言っていることもとてもおかしいことに思われる。結局これも彼らの自分勝手な都合の良い意見を罪もない「証人たち」に従わせるためではないかということがこのことからもよく分かるのである。
(この項終わり)
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-26 21:23:38 (1807 ヒット)

エホバの証人がクリスマスを嫌うもう一つの理由がこのほど明らかになった。大げさに言えばこんなことになるが、クリスマスを祝わない理由としてこんなことを言い出している。

 それは、イエスはいつまでも子供ではない。だからイエス・キリストの降誕を祝うことは必要ではない。むしろばかげている。などというのだ。

 こんな理由は、全く意味のない理由であるが、どんな理由でもそのことを理由に組織の言うことならなんでも聞こうという意識があるのだから、このことも結構な理由になっているのだろう。

 確かにイエスが生まれたのは、2000年も昔のことだし、イエスは生まれてから33年で十字架につけられてしまったので、誕生を祝うのはおかしいと言えば言えるかもしれない。

 しかしこの誕生によって、また十字架におつきになったことによってどのようなことが起こったかということをよーく考えてみれば、私たちが何故イエス・キリストのご降誕を祝うのか、また祝わねばならないのかが分かるであろう。

 イエス・キリストが、お生まれになって以降、父なる御神からのみこころをどのように果たされたかを聖書から読んでいただきたい。

 ヨハネの福音書3:14にはこのように書かれている。
「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 父なる御神は、神を信じる者が罪によってけがれて裁きにあうことのないように御子イエスをこの世に遣わされたのだ。そしてそのためにはこの世に人間として生まれる必要があったということだ。

 神は、イエスを人間として生まれさせるためにどれだけのご配慮があっただろうか。聖書にはそのことが、父なる神のご配慮がはっきりと記されていると思う。(この項終わり)

 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-17 11:20:20 (546 ヒット)

直前の日記でも書いたのだが、クリスマスが近づいてくると、エホバの証人についての疑問がわきあがってくる。

 それはエホバの証人のクリスマス拒否症とでも言いたくなるような病的な症状のせいである。何故イエス・キリストをそんなに拒否するのであろうか。
 
彼らは全くイエス・キリストを否定しているわけではない。それが証拠にフランスでエホバの証人が「宗教」と認められたというので大喜びをしたのは、ただ税金が安くなるためだけではないだろう。

 フランスで何故エホバの証人を宗教と認めたかその理由はよくわからないが、信じる人を安心させることが本当に良かったことなのか実際わからない。
 
「イエス・キリスト」と宗教集団である「ものみの塔」が言っているとすれば、それだけでイエスはキリストであり、メシアであり、日本語でいえば救世主すなわち救い主だという信仰告白であるからだ。

 彼らエホバの証人は、本当にイエス・キリストを救世主、救い主と認めているのであろうか。まったくそうは考えられない。何故ならイエス・キリストの生誕を祝うクリスマスを全否定するからだ。

だから彼らエホバの証人は、似非キリスト教であり、聖書も自分では読めないカルト教団なのである。

 自分たちエホバの証人が宗教でありキリスト教であるというなら文字通りキリストを救い主として感謝し、イエス・キリストを私たち罪人の罪をあがなうために遣わしてくださった父なる神に感謝をささげるのが当然と言ってよいのではないでしょうか。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-09 14:40:42 (592 ヒット)

伝道者の書7章1節の後半の部分だ。
クリスマスが近づくと、エホバの証人の口からこの言葉が何回か出てくる。分かっている人は、またか!と言うだろう。

クリスマスは、イエス・キリストの生誕を祝う日だ。この聖書のことばを一つの根拠としてエホバの証人はクリスマスを祝わないという。
要するに聖書は生まれた日よりも死んだ日を祝うべきだと言っているから、誕生日を祝うことはしない。だからキリストについても同じだというのだ。

しかしこの言葉は永遠の真理として書かれたものではないだろう。続いてこう書かれている。
 
”祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が
それを心に留めるようになるからだ。”とある。

私たちが何で生きているのか、生きている意味を、つまり神の恵みをよく味わって生きるべきだということを聖書はこの箇所で言っているのだと思うが、みなさんはどう思いますか。

イエス・キリストは、神の子であるのに、神の在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:6)そのような方が生まれた日を祝うのは当然のことではないでしょうか。

またイエス・キリストは神の前に人間の罪をあがなうためにお生まれになった方でもあるのです。
生まれないで死ぬことができるでしょうか。この点においても彼らエホバの証人は大きな過ちを犯しているのではないでしょうか。
(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-08 03:38:58 (399 ヒット)

ものみの塔は、いや、統治体はものみの塔を通して何よりも大切なのは神の国だと言っている。そして神の国を宣べ伝えると言うが、イエス・キリストに選ばれて異邦人の伝道に遣わされたパウロはイエス・キリストを宣べ伝えると宣言し、実際イエス・キリスト以外のことを糞土のように思うと言っている。

 マクグラスは、「パウロは、イエス・キリストの死と復活を宣べ伝えたが特に死について詳しく考えたようだ」と言っている。 

 そしてイエス・キリストを主とする教会は、カトリックもプロテスタントも例外なく、イエス・キリストの死と復活を想い出し、表す儀式、聖餐式やミサ、そしてその式文にそのことが銘記されている、と言っている。
 
 このことは使徒たちから始まって粛々と受け継がれてきたのであって権威があるという。

 自分に理解できないことは信じないというのが啓蒙主義の流れで、ものみの塔もその流れに属するわけだが、使徒たちはイエス・キリストにじっさい会ってその印象と教えを聖書に記した。啓蒙主義者たちが1000年も経過してのちにイエス・キリストについて言うことが何故使徒たちより正しいと言えるのであろうかとマクグラスは言っている。

 ものみの塔は、啓蒙主義者たちの系譜に属することはあっても、使徒たちの系譜には属していないようである。ふつうに考えてもわかるように実際に会った人は、実際に会っていないで文句を言う人より正しくその印象を伝えることができると思いますが、ものみの塔の統治体の方々は、またエホバの証人の方々はどのように考えますか。

あのトマスは、復活のイエスに会ったとき「わが主、わが神」と言って礼拝した。

その後イエス・キリストを信じる人々はイエスに礼拝をささげた
という事実。(この項終わり)


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