投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-05 07:35:39 (131 ヒット)

前項では、だいぶ長く書いてしまったが、私の言いたいことはただ一つで、ある人が考えるような仕方で聖書は好き勝手に解釈することはできないということだ。

 なぜなら、神が人間にみこころ(ご意志)を伝えるのに、人間のことばを使われたということがその理由だ。神が、人間のことばを用いることは人間の考え方をもちろん知っておられ、単語の意味も文法もどのように理解されるかも知って、すべてのことを考えられた結果だと思うからだ。
 逆に言えば、神の御心が聖書に表されているのであれば、用いられた単語の意味も文法も人間が理解するように理解しても良いということだし、そのようにしなければ神の御心は理解できないということでしょう。

 1つの文書が聖書であるならば、それを理解するには、その最初から最後までを用いられるということである。だから、どこかの団体がするように、1つの文章を取り出して、それが御心だということはできないことは言うまでもない。

さらに言えば、聖霊によって正しく読むならば、その文章全体の意味とまったく異なる解釈になることは絶対にならないだろうし、全く異なる解釈をすることは、間違った読み方であるともいえるだろう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-02 17:55:16 (142 ヒット)

「聖書は、神の言葉」とエホバの証人はいつも言っているし、またそのような出版物もある。エホバの証人は、心からそのように思いまた信じているようだ。
そして、さらに彼らは神の言葉すなわち聖書を正しく読まなければならないとも信じているようだ。その固い信仰に水を差すわけではないが、しかし彼らはほんとうに聖書を神の言葉として正しく理解しているのであろうか。彼らの言うことを聞き聖書の引用の仕方を聞いていると、それはとても疑わしいと言わざるを得ない。

 まず聖書はどのような意味で神の言葉なのだろうか。
聖書は神の言葉と言っても人間のことばで書かれている。旧約聖書は、ヘブル語で書かれたし、新約聖書は、ギリシャ語で書かれた。そしてヘブル語も、ギリシャ語も、人間のことばである。神は、ユダヤ人が話したり書いたりしているヘブル語や、ギリシャ人が用いているギリシャ語を用いて、ご自身のご意志を伝えようとされた。もちろん、聖書として文字にする前に、音声を用いてかまたは霊感を用いられたか分からないが、ご自身の意志を伝えられた。それを聞いた人は、自分の分かる言葉にして筆記した。そして人が読める物となった。

 神のご意志(御心)が文字にされたとき、それを人は聖書と呼んだ。もちろん、この聖書は神の聖霊がはたらかれた。では、聖書を読んで神のご意志(御心)を理解しようとする場合、どうすれば良いのだろう。この聖書は神が聖霊によって書かせたものだから人間が意味する言葉をはなれた意味を表すものであろうか。

 神は、人間の使っていることばを用いて、ご自身のご意志(御心)を表されたのだ。人間のことばによってご自身の聖なる御心を書き記されたことを忘れてはならないと思う。

 ということを前提にすれば、聖書は神の言葉だからすべてが神の用いる特別な意味に使われているわけではない。もしそのようなことを神が意図されたのであれば、当然そのような注釈がつくはずである。神はご自身の御心が人間に分かるように人間の言葉を用いられたのだから、最大限人間に理解できるように書かれたはずである。
例えば、聖書に「良い」と書かれていれば、神の用いる意味で「良い」というだけでなく、それは人間の用いる意味でも「良い」という意味である。このことがなければ聖書を読み理解することはできない。

 それでは聖霊によって書かれたということから、聖霊によって読むということはどのようにすればよいのであろうか。
聖書が以上のように、人間の言葉によって書かれたとしても、それでこの聖書つまり神の言葉がすべて理解できるわけではない。そのことは聖書を読んでいて誰しも経験することだ。
聖書には、神の御言葉が書かれているのだから、すべてを理解することができないのは当然のことだ。その神の御言葉を理解するために、聖霊の働きを期待しなければならない。
 そこに聖霊の働きがある。イエス・キリストは、十字架にかかられる前に、そのように言われた。ヨハネ16:7〜「わたしが去っていくことはあなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたの所へ来ないからです。しかしもし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。・・・・」聖書には聖霊によって教えていただかなければならないところがあるのだ。
正しく理解するとは、そういうことである。だが決して聖書の書かれた人間の言葉の意味をはなれて勝手な解釈をしても良いということはない。ペテロ第2の手紙1:20には「なぜなら、(聖書の)預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあります。

 しかしエホバの証人の「正しい理解」とは、聖書を「ものみの塔」に書かれた聖書解釈を無条件で受け入れることをいうのである。それは書かれた聖書の人間の言葉の意味を全く違った意味に解釈したり、逆に全く無視したりしている場合がある。ものみの塔による聖書理解とは、彼ら統治体の考えるように聖書を受け取ることなのである。これが彼らの教えとキリスト教の解釈とが全くかけ離れてしまう理由なのである。

 つまり彼らエホバの証人は、聖書の解釈を、聖霊による解釈という名のもとに彼ら(ものみの塔編集者)の意図するように解釈をすることなのだ。それは決してあらゆる人を救いに入れるという神の御心=ご意志とはまったく関係ない解釈なのだ。もちろんエホバの証人の救いとも全く関係がない。
それにもかかわらずエホバの証人は、彼らの解釈が彼らの救いに欠くべからざるものと思い込んでいる。そしてものみの塔に書かれている聖書の解釈は彼らの大事な組織にとっての専売特許だと思い込んでいるのだ。そのところが、エホバの証人の悲劇というべきところなのであろう。

 ペテロの手紙に書かれているように、聖書はよく読めば分かるものなのだ。(「その(パウロの)手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書のほかの箇所の場合でもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」そして分からない時には、イエスがおっしゃったように、聖霊がそれを教えてくださることを期待するべきです。

 もちろん、聖書が書かれたときと現代では何百年、または何千年も隔たっていることを考えれば、常識的に、その当時はどのような習慣があったのか、どのようなことが考えられていたのかも学ばなければならないでしょう。その後でもわからない時には、何度でも聖霊の助けを願わなければならないでしょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-12 17:37:45 (141 ヒット)

ある人たちは、年に1度、「主の記念式」と言って、食事をしないために集まっている。まったく不思議なことをやる宗教団体もあるものだ。

彼らは、年に一度、イエスが命じたこととして、食事をするために集まってくる。それも自分にとって最上の装いをして。お祝い気分なのである。それがまたおかしい。

新約聖書には、イエスが十字架に付けられる直前に弟子たちを集めて食事をしたことが記されている。一番古い記録として第汽灰螢鵐反佑悗亮蟷罍隠云錬横~26にある。これがイエス・キリストの有名な最後の晩餐と言われる記事である。
キリスト教の教会では聖餐式の度に式文として読まれる記事なので、ここにご紹介しよう。
すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための私のからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えてこれを行いなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

そしてほとんどのキリスト教の教会では、月に1度か2度、この聖餐の式を行っている。牧師はこの式文を唱えながら、集まっている信徒たちにパンを裂いて回し、ぶどう酒またはぶどうジュースを配って共にいただく。このような聖餐式は主イエスの記念なのだから、本当はもっと頻繁に聖餐式を行う望みはあるが、諸般の事情によって月1度くらい行う教会が多い。

しかし、ここに奇妙な宗教団体がある。聖書を神のことばと信じているというが、年に1度しかこの聖餐を行わない。そしてキリスト教会と同じように上記の式文を唱えて、パンを配るのだが、パンをとって食べる者も一人もいない。またぶどう酒またはぶどうジュースを配るのだが、誰も飲まないのだ。
「これは私の肉である。このパンを食べなさい」とイエスがおっしゃっているのに、多くの人が集まって、パンをその人たちに回しながら、誰も食べないのだ。また聖書には、続けてイエスがぶどう酒を示して「これは私の血である。これを飲みなさい」と言って、集まっている多くの人に回すのであるが、誰も飲まない。

これはまさにおかしい。この人たちは自分たちのことを「エホバの証人」と言っている。彼らは、それでいて、自分たちほど聖書=神の言葉に従っている者はいないと言っているのだ。また、イエスを信じていると称して、自分のことをクリスチャンとも言っているのだから。日本にいる、多くの人たちがこのような奇妙なことをしているのだ。

彼らがイエス・キリストを信じているというなら、イエスの言葉に従うべきだろう。イエスは、父なる神に聞かずにはことばを話さないと言っておられるのだから。もしこのイエスの言葉にしたがわないのであれば、父なる神=彼らのエホバの命令にも従わないことになってしまうのだ。重大な命令違反=罪ではないのだろうか。

しかし、聞いてみると、パンを食べぶどう酒を飲むことができるのは、天に行く14万4千人だけだという。しかし、誰がそんなことを決めたのであろうか。
彼らは、イエスの命令=父の命令よりも強い命令を誰かから受けているのであろうか。
つまり、そのことを決めたのはものみの塔を出版している統治体以外にはない。つまり、彼らは、イエスや父なる神よりも強い命令を受けている人たちなのだ。神以外のものに従う者は、偶像礼拝者である。
はしなくも、ここでもそのことが明らかになったのである。(この項おわり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-23 19:43:44 (171 ヒット)

英語で、「グッド・クエスチョン!」と米国人はよく言うようだ。訳すと、「良い質問だ。」となる。自分にとってあまり聞かれたくない質問をされても言うらしい。
でも、本当に良い質問には、良い答えがあるということも事実だ。その質問をすることによって、真理に行きつける真理への入り口になる。そのような質問を私としてはどうしてもしたいと思う。また他の人がすることもとても望ましいことと思う。

 先日そのような質問に会ってとてもうれしくなった。
ある人が、教会で「福音書に書かれているイエスは、悪霊に対して必ず命令をするのは何故だろう。」という質問をした。その時、牧師もいたけれど、勉強不足でと言って答えをされなかった。

 私は、面白い質問だなと思った。それでしばらく考えた時、「うん!」とうなってしまった。確かに福音書を読んでみると、イエスは悪霊に会ったとき、必ず命令をする。決して悪霊に相談をしたりすることはない。たとえば、「その人から出て行け!」あるいは「黙れ!」「豚の中へ入れ!」など。そしてその悪霊に対する命令は必ず聞かれる。その命令は失敗することはないのだ。イエスは、悪霊には、絶対の優位性をもっている。イエスは、人間であるが、必ず悪霊に勝利するのだ。たとえば、マタイ8:28〜30、マタイ10:1、12:22などを、聖書をもっている方は是非見てもらいたい。

 しかし、普通の人間は、悪霊に対してそんなことはできない。むしろ悪霊のいうがままになってしまう。悪霊にはほとんど100%負けてしまうのが人間だと思う。
しかしイエスは、普通の人間にない能力を持っているのだということを改めて確認することができた。

そう考えていると、聖書の中で、イエスは自然に対しても同じように、その命令は必ず聞かれている(マタイ8:26,27など参照)ことに思い当った。

 もちろん、おおかたのキリスト信徒は、当たり前と思うのではないかと思う。しかし子供のように神の国を受け入れなければならないとも、聖書のイエス・キリストは言われるのである。

 悪霊に対しても、自然に対しても、圧倒的な力を示されるイエス・キリストは、真に神の子であると言われるにふさわしい方ではないだろうか。

 エホバの証人は、このようなイエスを、できるだけ普通の人と考えようとしていると思われる。このような実例を示されると、エホバの証人はきっとびっくりするに違いないと思う。

心ある人は、エホバの証人にこのような質問をしてみてください。多分90%のエホバの証人は、「えっ!?」と言ったまま無視するでしょう。「イエスによってしか救いはない。」と聖書に書かれているにもかかわらず、彼らの注意は聖書にはない。いくら聖書を毎日のように読んでいても、厳密に言えば彼らは聖書を読んでいない。彼らは、ものみの塔に何が書かれているかに注意しており、自ら聖書を読んでも決してそこに何が書かれているかが関心の的ではない。彼らが注意するのは長老が何を言うかのほうが大事なのだ。聖書に何が書かれていてもそのことを信じようとはしないのだ。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-14 20:57:29 (281 ヒット)

エホバの証人は、よくこのように言う。「キリストは、第2のアダムだ!」そして「キリストは第2のアダムなのだから、第1のアダムのように、エホバ神に作られた被造物なのだ。」と彼らは、続けるのだ。
しかし、彼らエホバの証人が上記のように読みまた信じているとすれば、本当に聖書を読んでいるのかは非常に疑わしい。その結果彼らはとんでもないことを信じるようになってしまっているのではないか。彼らの信仰の内容について疑わざるを得ない。

確かに、そのようなことは聖書の中に書かれている。「キリストは、第2のアダムだ!」
このことばは、パウロの手紙の第汽灰螢鵐反佑悗亮蟷15章からの引用ではないかと思われる。彼らエホバの証人の公認の新世界訳聖書から引用してみよう。問題の「アダム」を含むコリント人への手紙第気砲錬臆媾蠅△襦その一つは以下のものである。この個所からそのように読めるのであろうか。

まさにそう書かれています。「最初の人アダムは生きた魂になった」。
最後のアダムは命を与える霊になったのです。46 とはいえ,最初のものは霊的なものではなく,物質のものであり,後に霊的なものとなります。47 最初の人は地から出て塵で造られており,第二の人は天から出ています。48 塵で造られた者たちは塵で造られた者のようであり,天的な者たちは天的な者のようです。49 そして,わたしたちは,塵で造られた者の像を帯びてきたように,また天的な者の像を帯びるのです。(新世界訳聖書コリント機15:45)

45節については、
「生きた魂」の「魂」は、英語では、soulで、英語と同じように、「もの」とも訳すことができる。その方が良いのではないだろうか。つまり、アダムは地の塵から形作られたのだが、神の息によって、生きるようになったということだ。
そして「最後のアダム」つまり彼らの言う「第2のアダム」イエス・キリストは「命を与える霊」となった。
46節以後の節は、最初の人アダムと最後のアダムイエス・キリストの比較になる。
47節
最初の人アダムは、神によって地の塵から造られた被造物であるが、第2の人イエス・キリストは天から出ている。天から神によって遣わされた方だ。神の被造物ではない。
48節
アダムは塵で造られた者であるが、イエス・キリストは天から出ているので、天つまり神的なものだ。
49節
私たちはアダムの子孫であり、現在は地のものであるが、将来的にはイエス・キリストの犠牲によってイエス・キリストのように天的なものになるということではなかろうか。

この個所は、エホバの証人がいつも言う「イエスは被造物である」という説を強めるどころか、その反対に、イエスは天から出たものであり救い主であることを明らかに主張している個所だと思いますが、いかがでしょうか。
「イエスは第二のアダム」ということだけを読み考えるとすれば、エホバの証人が考えるようにならないとも限らないが、その前後を読んで理解しようとすれば、イエスは天から出たものであって被造物ではないことがハッキリと受け取れると思う。イエスによって私たちは天的な者の像を帯びることになるのです。

新改訳聖書によればこの49節は「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」と訳されます。

 聖書を直接に読んで理解することによって、私たちの、まことの救いの道が開けるのです。しっかり聖書を読みましょう。(この項終わり)


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