投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-04 18:18:57 (189 ヒット)

彼らは、聖書は全体から読むべきだと、常に主張しそのように読んでいると主張している。彼らはほんとうに聖書の全体から意味を理解していると信じているが、まさにそのことが疑わしい。
彼らがそのことを言う時はいつもその部分が、彼らの主張している教理と異なっているときに限られているというのもおかしなことである。

 実際、彼らが言うように聖書全体から見てみよう。例えばギリシャ語聖書(彼らはそう言うが、一般的には新約聖書)は何のために書かれたのであろうか。
まったく疑わしい訳の新世界訳聖書であっても、新約聖書は4種類の「書」(一般的には「福音書」)から始まる。そしてマタイの書、マルコの書、ルカの書、ヨハネの書に書かれている内容は、普通の聖書と同じようにイエス・キリストの奇跡と教えである。またその後には、「使徒たちの活動」が続いている。その内容はキリスト教徒が用いている使徒の働きと同じで、その後におかれている手紙にはイエス・キリストが任命した12使徒やパウロが、イエスがキリストであることを宣べ伝えている。

私は何を言いたいのかというと、新約聖書は、エホバの証人統治体が訳した新世界訳でも、イエス・キリストの十字架(もちろんそれが「悲しみの杭」であっても)を中心に書かれているということだ。使徒たちは、イエスがキリストであり、ヘブル語聖書つまり旧約聖書に書かれた預言がことごとくイエスにおいて然りとなったということを手紙でそれぞれ書いている。これが聖書全体からみた内容である。
しかし彼らは強引にそれをエホバ中心にしようとするのである。その結果、新約聖書が当然のごとくイエス・キリストを「主」と呼んでいるにもかかわらず、「主」は、エホバだと強引に書き換えるのである。そしてそのことが、エホバの名を復元したというのだ。まさにそれは聖書を改ざんしたとしか思えない行為である。

エホバの証人またはエホバの証人統治体はこのような聖書を、聖霊によって書かれたと強弁する。もうすでに最初から間違っているのである。
そしてその聖書を改ざんした当の偽預言者団体を神の聖霊を受けたものとして崇め奉っている。

 そのような聖書とそのような間違った聖書を作る団体を崇めて、彼らの救いは得られるのであろうか。エホバの証人が、そのような聖書にしたがって努力をしても神はその努力を認めてくださるのであろうか。私には、残念ながら、神の救いのみわざを否定する行為としか思えない。

 ヨハネの黙示録(新世界訳では、『啓示』)の最後(22章18~19節)には、ことばを書き加えたり、取り除く者は、災害を与えられたり、神の国に入れないと書かれているが、このことは、黙示録にとどまらずに聖書全体に対する、警告と言われている。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-28 15:49:08 (202 ヒット)

あるエホバの証人が、ボソッと言ったそうである。
「私が、終わりの時に生き残れるかどうかは分からない。でも今与えられた奉仕を懸命にやって、そのあとは、エホバにおまかせするしかない」と。

 「とてもけんそんなエホバの証人ですね。このような証人なら、必ずエホバは終わりの時には、取り分けて必ず生き延びさせてくださるでしょう。」と思った方もいるのではないでしょうか。確かに人間的に見れば、その方は同情すべき人であるかもしれない。「この人は何と言っても、エホバのために努力しているのだ。このような人こそ救ってあげるべきではないか!」

 エホバの証人は努力している。どんなエホバの証人も努力を惜しまず、長老のために、いや組織のために、いやエホバのために努力している。そんな努力を見過ごすエホバがいるのであろうか!?

 しかし、彼らエホバの証人は、真に努力をしているのであろうか?彼らはエホバに認められたいのであれば、本当にエホバのみ心を知ろうとしたのであろうか。

 彼らが自分の努力をしたことを誇ろうとするなら、いやエホバに認めてもらいたいと思うなら、彼らエホバの証人は、エホバ=聖書に書かれている神の努力を知ろうとしたのだろうか。

 エホバの証人は、聖書の神の御心を知ろうとする前に、統治体から送られてくる文書を神の御心として読んでしまったのではないか。彼らエホバの証人が頼りとして読んでいるものは、統治体から送られてくる「ものみの塔」であり、「めざめよ」である。

 エホバの証人である人々は、その「ものみの塔」や「めざめよ」などの雑誌からの記事が、真に聖書を土台として書かれているかを確かめたのであろうか。
聖書の「使徒の働き」には、パウロの話しを聞いた人たちは、そのことが聖書に書かれているかどうかを確かめたと書かれている。そのような努力をされたのであろうか。

 もっとも、「ものみの塔」に書かれていることが彼らの読む「聖書」に書かれていたとしても、安心はできないのである。彼らの引用は聖書の中の1節だけを引用して、それを基にして議論を進めていくのである。是非そのような書、「ものみの塔」や「めざめよ」などの雑誌の中の記事を読む時には、その1節が聖書の中にあることで安心しないで、その前後を必ず読んでみていただきたいのである。するとその前後の文を読んでみると、まったく違う風景がそこには広がっている。「ものみの塔」が神のみこころとして主張していることと反対のことが書かれたりしているのである。これには驚く他はない。こんな記事を信頼して神の御心として信頼していたのか!!!!(続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-24 10:55:32 (178 ヒット)

弟子たちは、イエス・キリストの生きていた時と十字架の後でどう変わるかと思われるかたが、ひょっとしたらおられるかもしれない。弟子たちは同じキリストに従うのではないか。同じキリストを模範としているのなら、キリストが生きているうちに従ったとしても、また十字架の後のキリストに従うとしてもおんなじだ、変わるはずがないと考える方がいるとしたら、非常に残念である。
イエス・キリストは十字架上で死亡された。そして40日間弟子たちに現れた後天に昇られた。イエス・キリストは十字架上でいくつかの言葉を発せられたと聖書に書かれている。その中で「成し遂げた」とイエスはいわれた。イエスは何を成し遂げられたのだろうか。

弟子たちもであるが、私たち人間もそのことイエスが十字架に死なれた後どのように変わったかを考えたい。私たち人間は、そのことによって変化することはなかったかもしれない。しかし、神と人間の関係は、確かに変化したと言ってよいのではないか。

何故ならば、イエスは、父なる神によって遣わされた罪のない神の子であった。その、罪のないイエスが、十字架上で死んだ。しかもその神の子の死をすべての罪びとに替わって死んだと、神はされたのだ。そしてそのことを信じる罪ある人間はそのことによってその罪が赦されると神はされた。旧約の犠牲の小羊、また犠牲の牛と同じように人間の罪はイエスに転嫁されることとなった。もちろんその人間がそのように信じた場合であるが・・・

この項を書き始めた理由は、エホバの証人はそのような聖書がもっとも重要として繰り返し述べていることを全く無視していると思ったからだ。彼らが全く無視している、というと正確ではないかもしれない。彼らはイエスの悲しみの杭の上での犠牲を決して忘れているわけではない。しかしなぜか、彼らはイエスの犠牲は、「アダムの罪」にのみ働くとしており、その後に犯した罪までは赦されないとしている。人間の原罪とその後に犯した罪と分けることができるのかとエホバの証人統治体に聞きたい。イエスはそのように人間の犯した罪を分けて考えたのだろうか。

イエスが十字架にかかられたとき、イエスの十字架の左右には、2人の犯罪者が十字架につけられた。一人の犯罪者はイエスに「私を覚えてください」と願ったが、その時イエスは「あなたは今日私と共にパラダイスにいるであろう。」と言われた。つまりその罪人は、原罪だけでなく、その後の生涯に犯した罪をもイエスによって赦されたのだ。
よってイエスは真に私たちの罪をすべて赦される救い主であり、私たちのキリストなのだ。

エホバの証人は、イエスを自分たちエホバの証人と同列に並べる。その理由はイエスが父は私より偉大です」などの聖句による。しかし、イエスが地上におられたとき、ご自身肉の身体を取られたために父なる神とは霊的にも肉的にも非常に離れたところにおられたわけである。それで父は私より偉大であると言われたのであろう。しかし実は、ヨハネの福音書の冒頭の部分を見るとイエスは父と共にこの世をお創りになったことがハッキリと書かれている。

そのように、彼らは無理やりイエスを過小評価しており、イエスを救世主(キリスト)と考えていないことは明らかなのだ。にもかかわらず彼らは自らを「クリスチャン」と名乗るのである。こんなにおかしいことはないのだ。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-07 19:13:40 (172 ヒット)

クリスチャン、クリスチャン、と、人は当たり前のように言うけれど、肝心の聖書には3か所に出ているだけだということを、みなさんはご存じだろうか。「えっ!聖書に出ているの?」と驚いた方はまさかおられないだろうと思うけれど・・・

 そうです。このクリスチャン、またはキリスト者と訳している版もあるかもしれないが、確かに聖書には、「使徒の働き」に、2か所、「ペテロの手紙」に1か所、あります。
最初に、聖書に「クリスチャン」または「キリスト者」と出ているのは、使徒の働き11章26節です。
25節から引用してみると
「バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れてきた。そして丸1年の間、彼らは教会に集まり、おおぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(新改訳3版)
「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」(新共同訳:使徒言行録11章25〜26節)
「それで,彼はサウロを何とか捜そうとしてタルソスに出かけて行った。26そして,見つけてから,彼をアンティオキアに連れて来た。こうして,彼らはまる一年のあいだ人々と共に会衆に集まり,相当数の人々を教えることになった。そして,弟子たちが神慮によってクリスチャンと呼ばれたのは,アンティオキアが最初であった。」(新世界訳同)

新世界訳の「神慮によって」とは、どこから訳出したのだろうか。この言葉は無視したい。

ここで、「見つけ出して」「見つけてから」と書かれているのは、バルナバがパウロを見つけ出したということである。
パウロは初めパリパリのパリサイ人で、イエスを信じる人たちは、神に反対する人たちだと思い、イエスの死後に教会に侵入しては、見つけ出しては牢屋に入れたりしていた。

「サウロ(パウロ)は、家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒らし回った。」(使徒8:3)

このようなサウロが、復活したイエス・キリストと出会い、救い主と信じるようになり、今度はイエスを宣べ伝えるようになっていったのだ。パウロの回心の事情については、使徒の働きに3度も繰り返し書かれているので、皆さんもよくご存じだろう。
ペテロやその他の弟子たちは、もちろんこの時には、イエスが真の救い主であることを信じていた。彼らの真の回心の事情については、パウロほどの劇的な回心ではなかったようだが、使徒の働きにちゃんと書かれている。イエスの十字架の時逃げ出した弟子たちもその後イエスの復活の後何度も弟子たちに姿を現されたことが書かれてある。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」(新改訳使徒1:3)

 つまり、イエスを信じる者が「クリスチャン」または「キリスト者」と呼ばれたのは、イエスが十字架にかかって死んだ後、復活の主と出会いまた聖霊が注がれたあとだったということである。

では何故彼らイエスを信じた者が、パウロの指導を受けた弟子たちがどうして「クリスチャン」または「キリスト者」と呼ばれたのだろうか。そして誰にそのように呼ばれたというのだろう。

英語では、「クリスチャン」という言葉は、ギリシャ語では、クリスチアノスという。クリスチアノスとは、ニックネームつまり、あだ名で、「キリストさん」あるいは悪い言葉では「キリスト馬鹿」「キリスト気ちがい」などと言ってもよい意味だという。弟子となった彼らは、パウロと同じように、キリストの素晴らしさに、二言目には、キリスト、キリストと連呼していたに違いない。それで彼らは、「クリスチアノス」「クリスチャン」と呼ばれたのだ。

 その事情は、パウロの手紙を読むとよく分かる。パウロは、キリストに出会うまでは価値があると思っていたものを、ちり芥のように思っていると手紙の中で言っている。そしてキリスト以外のことは考えないようにするとも。
このパウロのような人は「キリスト」以外には口にしないのではないか。それにしたがってパウロの教えに従う人たちも同じくそのようになって行ったことは十分に考えられる。
 イエスを真の救い主と信じた弟子たちが「クリスチャン」または「キリスト者」と呼ばれた理由だと考えて良いと思う。

しかし、それでは、現在、エホバの証人が自分たちを「クリスチャン」または「キリスト者」と呼ぶのは、どうしてなのだろうかということである。
彼らエホバの証人は、イエス・キリストをエホバの証人と呼んだり、神より偉くないと言ったり、パウロの手紙は、14万4千人のためのものだなどと言ったりしている。彼らはキリストを救い主とは言っていない。彼らは「奉仕、奉仕」と言って、1軒1軒訪問をしながら、キリストと言うどころか、「エホバ」としか言っていないのだ。
その彼らエホバの証人が自らを「クリスチャン」と呼ぶことは、どれだけおかしなこと、奇妙なことか分かるだろうと思う。(続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-01 02:07:06 (186 ヒット)

「クリスチャン」または「キリスト者」とは、普通世の中で言われているのは、キリスト教を信じている人、またキリスト教会に行っている人のことを言うのだと思う。しかし、もう少し広げて、キリストを信じている人のことを言っても別に問題はないのかもしれない。
 要は、「クリスチャン」という言葉または概念には、はっきりした決まりはないということだと思う。
キリスト教界でも、その厳密な定義をしてはいないのではないだろうか。キリスト教会で洗礼を受けても、「あなたをクリスチャンまたはキリスト者と認める」などという身分証明書などを発行してはいないと思う。(すべてを調べたわけではないので、もし発行している教会が在ったらごめんなさい)

 それでは、キリストを信じていると言う人であればすべての人を「クリスチャン」または「キリスト者」と言ってよいのだろうか。
また今回の問題は、「私は真のクリスチャンである」と言いだしている人たちつまりエホバの証人について話したいのだ。そしてエホバの証人は、更に教会に行っているキリスト教の信者を「偽クリスチャン」とさえ呼んでいるのだ。

 エホバの証人が自分たちを「真のクリスチャンである」と言っている理由の一つは、彼らがイエスの命令に従っているということだ。彼らが従っているという命令は、皆さんご存知の野外奉仕活動のことらしいのである。イエスは弟子たちの訓練のために2人ずつ遣わしたという記事が、ルカの福音書などに出ている。そして弟子たちは主イエスの命令によって、1軒1軒訪問をしたという。そしてそれこそ、そのことこそ主イエスのマタイの福音書の最後にある28章19節?にある宣教大命令を実行することになるというのだ。そしてその命令を実行しているのは彼らエホバの証人だけだという。だからエホバの証人が真のクリスチャンだというその根拠になっている。また彼らの言葉によれば、この奉仕は神エホバからの委任がなければ誰もできない!という。

 彼らエホバの証人の偽りの主張を長々と記してしまったのだが、ルカの福音書やマタイの福音書に書かれている弟子たちは、真にイエスのことを理解し、本当に従っていたと言えるのであろうか。主イエスは、ご自分がキリストであることを度々明かされ、弟子たちに真にイエスの使命を理解させようと度々話をされた。しかし、彼ら弟子たちはそのことを聞いてもただ悲しむばかりで主イエスの使命を真に知ろうとはしなかったと福音書には書かれている。彼らは知ることはできなかった。その準備ができていなかったのだ。

 例えば、主イエスが変貌山上でエリヤとモーセと語り合ったのを目撃しても、ペテロは「3人のために小屋を一つずつ作りましょうか」などと見当違いな発言をしたりしている。
さらにイエスがその山上から降りてみると、弟子たちは子供の悪霊を追い出すことができず困り果てているといったことが続いていたのだ。生前に弟子たちは主イエスを真に理解することはなかったと言って良いのではないだろうか。
 最後の晩餐での弟子たちの態度、その時にユダの決定的な裏切りもあった。またゲッセマネの園での弟子たちの失態。イエスが血の汗を流して祈られており、一緒に目を覚ましていてほしいと懇願したにもかかわらず彼らはできなかった。そのようなことが3度も続いたのであった。そしてイエスが逮捕されるや逃げ出してしまった。

そのように、イエスの生前においてつまり福音書の中の弟子たちにはイエスのことが理解できなかった。「主よ。師よ。」と口では言っていても、真のイエスには出会っていなかったと言っても良いのではなかろうか。

 エホバの証人は、その福音書の弟子たちがイエスに従ったように、と言っているのだ。主イエスを理解していない点では、まさにその通りの同じ轍を踏んでいるのだ。しかし彼らにはそんな反省はまったくないようである。
 彼らエホバの証人はまったく無理解であった弟子たちがしていたようにイエスが「1軒1軒家から家へ訪問をしなさい」と言われていたと信じて、そのようにすれば、イエスのご命令に従っているのだと信じて、そのかたちを猿が真似するように真似をして、イエスに従っていると主張しているのだ。

しかし、そのかたちを真似すればサルが人間になれるのであろうか。そのようにエホバの証人は、その訪問をすれば、真に主イエスに従って真のクリスチャンになるのだろうか。

あまりに長文になりすぎた。稿を改めて、真にイエスに従った弟子たちの姿から、真のクリスチャンについて学んでみたい。(続く)


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