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メッセージ : 信仰と行い
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-04 15:14:52 (97 ヒット)

                      
これまで、エホバの証人の聖書新世界訳のヨハネの福音書3章14節の訳文から、新世界訳のいい加減さを話してきた、つもりであった。しかし、ヤコブの手紙の読み方によっては、そのいい加減な訳文(「信じる」を「信仰を働かせる」に訳した)が正当化される可能性もなきにしもあらずと気がついた。 

そこでその辺の事情について検討して、息の根を止めたいと思う。
もう一度新世界訳のヤコブの手紙2章からの引用をしてみる。
「14わたしの兄弟たち,ある人が,自分には信仰があると言いながら,業が伴っていないなら,それは何の益になるでしょうか。その信仰はその人を救うことができないではありませんか。15 兄弟か姉妹が裸の状態でいて,その日の食物にも事欠くのに,16 あなた方のうちのだれかが,「安らかに行きなさい。暖かくして,じゅうぶん食べなさい」と言うだけで,体に必要な物を与えないなら,それは何の益になりますか。17 このように信仰も,業が伴っていないなら,それだけでは死んでいるのです。」(新世界訳)

これを読むと、ほんものの信仰には業(わざ)すなわち行いが伴っていなければならない。それなら、「信仰を働かせる」と訳しても許されるのではないかということになりそうな気がする。「信仰がある」ことは、すなわち、業(わざ)すなわち行いが伴っているという意味になるのだろうか。さらに言えば、業(わざ)すなわち行いがあれば、信仰があるということにしても良いのではないか、ということになりそうだ。(エホバの証人は、奉仕ができなければ、バプテスマを受けさせないという。)

しかしそれはまったく違う。このことを聖書は、いやイエスは福音書の中で否定し、またパウロは、手紙の中で否定していると思う。そしてイエスを信じることの大切さ、不可思議さ、神秘さを、聖書は特に強調していると思う。

たとえば、イエスはヨハネの福音書7:38で
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる聖霊について、こう言われたのである。(新改訳2017)」
イエスを信じることの大切さがもっともよく表れていると思われる個所を見てみたいと思う。それはルカの福音書21章33節以降のイエスの十字架の場面である。
33「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。・・・・
39十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていない。」
42そして言った。「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」
43イエスは彼に言われた。「まことにあなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(新改訳2017)
ここで、イエスに「今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われた犯罪人はイエスを信じただけで、何も行いはしていない。彼のしたことは十字架にかかったままその後、死んだと書かれているだけである。イエスはこの犯罪人の信仰だけを見てパラダイスに行くと判断されたのであった。ここに信仰の偉大さ、不可思議さ、神秘さを見ることができると思う。

エホバの証人統治体は、行いを、即ち「奉仕」と読み替えて、奉仕をしなければ、その信仰はエホバに認められない。と声高に叫ぶ。そしてその「奉仕」を見て、そのエホバの証人が「地上で永遠に生きることができる」?かどうかを判断するというのだ。
それでそのことを聞いた真面目な働き人エホバの証人は、ひっちゃきになって奉仕に歩いているのだ。
しかし、エホバの証人統治体が言っているようなことは聖書のどこにも書かれていない。
それともエホバの証人統治体が創った地上の楽園があり、エホバの証人にそれに入る許可を与えるとでも言うのであろうか。もしそんなことがないならば、まじめなエホバの証人をだまさないでもらいたい。ありもしない地上の楽園、入ることもできない地上の楽園を信じたエホバの証人は、一生を真っ赤な嘘のために棒に振ってしまうことになる。(この項終わり)


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