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メッセージ : 続「ヨハネ3章16節を読む」
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-14 22:27:53 (77 ヒット)

ヨハネ3章16節は、聖書を信じる者にとって、「一行聖書」と言われているくらいに、有名な聖句であると前回お話しした。もう一度新共同訳を引用してみる。
(新共同訳)
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神がこの人間世界を愛するがゆえに、その独り子イエス・キリストをこの世に与えて、イエス・キリストを信じる者は、ひとりも滅びないで永遠のいのちを得ることができる、というのがこの聖句の意味である。また「一行聖書」と言われるわけも、このことを聖書全体が言っているからであると思われる。
 つまり、イエス・キリストを信じることによって、人々が救われるということだ。
しかし新世界訳の訳は、そこをひっくり返して、だれでも「彼に信仰を働かせる」と訳すことによって、「信仰を働かせる」という訳をすることにより、本来信じるの強調と見られる意味を、「働かせる」に引っ掛けて、行いをすることにまで無理やり意味を変えてしまったことによって、ついに誤訳と言わなければならない領域に踏み込んでしまったのであった。

参考「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。」(ヨハネ3:16新世界訳)

もちろんこの誤訳は、自然にとか、うっかりとかいうものではなく、「信じる」を「信仰を働かせる」と訳したときから、その目的は決定していたと言えるだろう。

つまり、彼らエホバの証人統治体の目的は、エホバの証人に1軒1軒訪問する奉仕をさせて、ものみの塔の信者を増やすためなのである。

 このことに私たちが気がついたとき、私たちはものみの塔エホバの証人統治体のおそろしい目的に、否応なく気づかされるのである。

ヨハネ3章16節が、「一行聖書」と言われているほど、聖書の真理を語っていると初めのところで述べたのだが、その意味を変えて、信じることから行動にしてしまうことによって彼らエホバの証人は果てしない奉仕という無間地獄に落とされてしまうことになるのだ。彼らは聖書を、つまりヨハネ3章16節を読んでも、イエスを信じるという神の国の入り口を通り過ぎてしまうことになる。そして彼らは統治体の意を汲んだ長老たちの指導の下に、信じるよりも信仰を働かせること、つまり永遠のいのちの入り口を横目に見ながら、奉仕に駆け回ることになるのだ。


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