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メッセージ : 輸血禁止について聖書からの反論
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-18 10:43:21 (20 ヒット)

・旧約における血の問題
ただし肉は、そのいのちである血のままで食べてはならない。(創世記9:3、4)
JW統治体は、これらの記事から輸血は禁止すべきだと結論した。

しかし、この律法における「血」とは、羊など家畜の血である。だから、いつも食べる可能性のある家畜の肉に含まれている血を指して食べてはいけないと言ったので、人の血は初めから考慮に入れていなかったはずである。もちろん人の血を食べるという習慣はイスラエルに無いことは当然である。だから、「輸血」と律法の「血を食べてはならない」とは、関係がないはずなのだが、JW統治体はさらに、「食べる」ではなく血を体に取り入れると律法を捻じ曲げて、「輸血」を「血を食べること」と無理やり曲解して禁止するとした。だから聖書的には初めから輸血は律法とは関係がなかったのだ。

しかし、百歩譲って(本来ゆずってはいけないところであるが、)彼らが言うように、この禁止命令を輸血にも適用できるとして考えてみよう。実際に、JWはこの規定に縛られているのだから仕方がない。
創世記やレビ記の「血を食べてはならない」とは、現在にも適用しなければならないものだろうか。
その家畜の血は、なぜ食べてはいけないとされたのであろうか。創世記、レビ記において、神を礼拝する儀式に血によって清めることは普通であった。創世記、レビ記において、常に行われることであった。「肉の命は血にある」と言われ、いのちを創られたのは神であるので、礼拝場所を清めるためにその血を用いられたのだと思われる。そしてそのために血を用いるために、血を食べてはならないとされたのではないか。
しかし、イエス・キリストが十字架にかかられて真のきよめが行なわれたとき、家畜の血による清めは必要がなくなった。
・新約における血の問題
新約聖書にも、血に関する勧めが書かれている。そしてそれをJW統治体は、「血を食べてはならない」の根拠として用いている。
下記の新約聖書の記事を見てみよう。
また使徒の働き15:28の記事に「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです」という命令、勧告がある。これは、使徒時代のエルサレム教会の中心人物主の兄弟ヤコブがエルサレム会議の結果をまとめたものであった。これは使徒の働き15章に書かれているとおり、異邦人のイエスを信じる人たちはモーセの律法を守らなければならないのだろうかという会議であった。
この問題の発端は、アンテオケ教会に来たユダヤ人信者が、「イエスを信じるだけではだめで、モーセの律法をも守らなければならない」と主張した点にあった。(使徒15章)パウロはイエス・キリストを信じて救われるためにはモーセの律法をも守らなければならないか。それはつまり、ただイエスを信じるだけの者たちを信者と認めるかということであった。議論は、大いに紛糾したようであった。
その結果、ペテロのコルネリオというローマの百人隊長の回心の実例などから、イエスを信じることで救われる。そして当然キリストの信者と認めることにした。しかし「モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれている」(使徒15:21)ことから、その人たちを考慮して4つのことつまり「ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血を避けるように彼らに書き送るべきです。(同20節)
 そのため、読めば分かるように、この「血を避けなさい」という命令、いや、勧告は、それを破ったら死ななければならないという命令では決してないのである。

ものみの塔JW統治体は、イエス・キリストの恵みを信じないで、なにか旧約の時代に帰ったもののようにこの中の勧めのひとつである「血を避けるように」を、あたかもこの「命令」を破ったら断ち切られるとした。この時点で彼らはイエス・キリストの恵みを無視して、神(エホバ)の命令に逆らう者となったと言えないだろうか。

「口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、それが人を汚すのです。」(マタイ15:11)
イエスは言われた。「あなたがたもまだ分からないのですか。口から入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。」(マタイ15:16〜17)


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