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メッセージ : エホバの証人は聖書を正しく理解するか!?
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-02 17:55:16 (142 ヒット)

「聖書は、神の言葉」とエホバの証人はいつも言っているし、またそのような出版物もある。エホバの証人は、心からそのように思いまた信じているようだ。
そして、さらに彼らは神の言葉すなわち聖書を正しく読まなければならないとも信じているようだ。その固い信仰に水を差すわけではないが、しかし彼らはほんとうに聖書を神の言葉として正しく理解しているのであろうか。彼らの言うことを聞き聖書の引用の仕方を聞いていると、それはとても疑わしいと言わざるを得ない。

 まず聖書はどのような意味で神の言葉なのだろうか。
聖書は神の言葉と言っても人間のことばで書かれている。旧約聖書は、ヘブル語で書かれたし、新約聖書は、ギリシャ語で書かれた。そしてヘブル語も、ギリシャ語も、人間のことばである。神は、ユダヤ人が話したり書いたりしているヘブル語や、ギリシャ人が用いているギリシャ語を用いて、ご自身のご意志を伝えようとされた。もちろん、聖書として文字にする前に、音声を用いてかまたは霊感を用いられたか分からないが、ご自身の意志を伝えられた。それを聞いた人は、自分の分かる言葉にして筆記した。そして人が読める物となった。

 神のご意志(御心)が文字にされたとき、それを人は聖書と呼んだ。もちろん、この聖書は神の聖霊がはたらかれた。では、聖書を読んで神のご意志(御心)を理解しようとする場合、どうすれば良いのだろう。この聖書は神が聖霊によって書かせたものだから人間が意味する言葉をはなれた意味を表すものであろうか。

 神は、人間の使っていることばを用いて、ご自身のご意志(御心)を表されたのだ。人間のことばによってご自身の聖なる御心を書き記されたことを忘れてはならないと思う。

 ということを前提にすれば、聖書は神の言葉だからすべてが神の用いる特別な意味に使われているわけではない。もしそのようなことを神が意図されたのであれば、当然そのような注釈がつくはずである。神はご自身の御心が人間に分かるように人間の言葉を用いられたのだから、最大限人間に理解できるように書かれたはずである。
例えば、聖書に「良い」と書かれていれば、神の用いる意味で「良い」というだけでなく、それは人間の用いる意味でも「良い」という意味である。このことがなければ聖書を読み理解することはできない。

 それでは聖霊によって書かれたということから、聖霊によって読むということはどのようにすればよいのであろうか。
聖書が以上のように、人間の言葉によって書かれたとしても、それでこの聖書つまり神の言葉がすべて理解できるわけではない。そのことは聖書を読んでいて誰しも経験することだ。
聖書には、神の御言葉が書かれているのだから、すべてを理解することができないのは当然のことだ。その神の御言葉を理解するために、聖霊の働きを期待しなければならない。
 そこに聖霊の働きがある。イエス・キリストは、十字架にかかられる前に、そのように言われた。ヨハネ16:7〜「わたしが去っていくことはあなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたの所へ来ないからです。しかしもし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。・・・・」聖書には聖霊によって教えていただかなければならないところがあるのだ。
正しく理解するとは、そういうことである。だが決して聖書の書かれた人間の言葉の意味をはなれて勝手な解釈をしても良いということはない。ペテロ第2の手紙1:20には「なぜなら、(聖書の)預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあります。

 しかしエホバの証人の「正しい理解」とは、聖書を「ものみの塔」に書かれた聖書解釈を無条件で受け入れることをいうのである。それは書かれた聖書の人間の言葉の意味を全く違った意味に解釈したり、逆に全く無視したりしている場合がある。ものみの塔による聖書理解とは、彼ら統治体の考えるように聖書を受け取ることなのである。これが彼らの教えとキリスト教の解釈とが全くかけ離れてしまう理由なのである。

 つまり彼らエホバの証人は、聖書の解釈を、聖霊による解釈という名のもとに彼ら(ものみの塔編集者)の意図するように解釈をすることなのだ。それは決してあらゆる人を救いに入れるという神の御心=ご意志とはまったく関係ない解釈なのだ。もちろんエホバの証人の救いとも全く関係がない。
それにもかかわらずエホバの証人は、彼らの解釈が彼らの救いに欠くべからざるものと思い込んでいる。そしてものみの塔に書かれている聖書の解釈は彼らの大事な組織にとっての専売特許だと思い込んでいるのだ。そのところが、エホバの証人の悲劇というべきところなのであろう。

 ペテロの手紙に書かれているように、聖書はよく読めば分かるものなのだ。(「その(パウロの)手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書のほかの箇所の場合でもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」そして分からない時には、イエスがおっしゃったように、聖霊がそれを教えてくださることを期待するべきです。

 もちろん、聖書が書かれたときと現代では何百年、または何千年も隔たっていることを考えれば、常識的に、その当時はどのような習慣があったのか、どのようなことが考えられていたのかも学ばなければならないでしょう。その後でもわからない時には、何度でも聖霊の助けを願わなければならないでしょう。


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