投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-08 18:34:55 (65 ヒット)

前回、聖書の66の文書は同時並行的に読むことはできないと申し上げたつもりである。創世記に書かれていること、詩篇に書かれていること、イザヤ書に書かれていること、その他すべての文書は、それぞれの時に書かれもちろん神によって聖霊によって書かれたものだから真理であるが、時に応じて書かれたもので、当然ながら同じことが書かれているわけではない。神のご計画は進んでいるのだと思う。

聖書自身にもそのようなことがハッキリと書かれている。たとえばへブル人への手紙の冒頭を読んでみると、
「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろの方法で語られましたが、」と神の語られたようすが語られている。さらに「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」と、御子イエス・キリストが終わりの時に神の言葉を語られたことが言われている。
何故神はこのように多くの部分に分けたりいろいろの方法で語られなければならなかったのであろうか。もちろん神のみぞ知るであるが、その必要性があったからであろう。

 またイエス・キリストも弟子たちにそのように教えられた。ルカの福音書24章にはイエスが十字架にかかって死んだ後よみがえって二人の弟子と出会った話が書かれている。
二人の弟子は、イエスが十字架にかかって死なれたのち、がっかりしたようすで、二人でイエスの話しをしながらエマオというところに向かって歩いていた。するといつの間にかイエスご自身が一緒に歩いている。しかし弟子たちには、その人がイエスだとは分からない。しかし弟子たちの話を聞いてイエスは、「ああ、愚かな人たち! 預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」と言って、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分に書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」
 と、ルカの福音書24章13節から終わりまでに書かれている。

旧約聖書(ヘブライ語聖書と言っても良い)は、いってみれば新約聖書イエス・キリストに至るまでの神の人間に対する救いの歴史である。聖書学者は、旧約聖書は新約を通して理解すべきだと言う。前述のルカの福音書のイエスの言葉によれば、旧約聖書はイエスについての預言と言ってもいいかもしれない。

 エホバの証人が言ってきたように、神の救いの光はますます明るくなって、イエスによって神の救いは完成されたと言えるのではないだろうか。
しかし、エホバの証人の言葉を聞いたり、ものみの塔を読んだりすると、なんということか、福音書からパウロの手紙、ヨハネの黙示録(啓示)へと進むかと思いきや、モーセに連れられたエジプト脱出のユダヤ民族のように、旧約聖書(ヘブライ語聖書)エゼキエルだったり、詩篇だったり、ウロウロとイエス・キリストの救いに入ろうとはしない。しかしモーセは、まちがいなく40年後には、目的地であるカナンの地にイスラエル民族を導いたのであった。

 彼ら統治体は、従順なエホバの証人をどこへ導こうとしているのか!
まさか、サタンも入るという底知れぬところ、燃え尽きない火の池へと案内するのではないだろう。しかし、偽預言者の系譜をひく統治体じしん、悔い改めなければ燃え続けている火の池へ投げ込まれることは間違いないであろう。

「また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあの偽預言者も彼と一緒に捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(黙示録19:20)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-04 22:15:27 (56 ヒット)

聖書は神の言葉であるとエホバの証人も認めている。そのような表題の出版物も出ている。そして以前彼らはよく言っていたが、真理はだんだんに明らかになっていくと。
聖書は初めに創世記があり神が無からすべてをお創りになって、さらに人間をお創りになって、せっかく良く創っていただいたのに、人間は神に逆らい罪を犯し自ら不幸へと転がり落ちて行った。しかしそれを憐れんだ神は預言者などによって助けの手を差し伸べた。
そして最後に、人間の罪を贖うためにイエス・キリストを地上に遣わしたのだった。そしてイエスをキリストと信じる者を永遠のいのちを与えて救うとされた。

おおざっぱに言えば、このような流れが人間の歴史である。そのように聖書にも書かれている。聖書は66の書物の集まりであるが、大きく分ければ39冊の旧約聖書と27冊の新約聖書となる。その大きな違いは、新約聖書はイエス・キリストが現れてから十字架に付けられるまでとその後神のさばきと神の世界に至るまでが書かれている。そして旧約聖書はこの世が創られてからイエス・キリスト以前までが書かれている。

聖書はそのような流れに従って読まなければ、正しい理解、正確な理解は得られないことは言うまでもない。
エホバの証人は「聖書は神の言葉」と言ったり、真理だと言ったりしているのにもかかわらずそのような「時の流れ」には無関心のようである。

彼らは、エゼキエル書、詩篇、イザヤ書、福音書、パウロの手紙、など、その時の流れ、神の救いの順序には、全く考慮しない。自由自在に彼らは自分の都合の良い聖句を引用する。それで彼らは正確な理解をしなければならないとしているのだ。彼らの正確とは何であろうか。何よりも驚くのは、それを読むエホバの証人である。そのめちゃくちゃな引用を全く当たり前のこととして受け入れることである。彼らの中には、真理かどうかを判断する基準はないのだ。

つまりものみの塔ほかの彼らの団体がすることが真理なのである。分かっていたことと言えばそれまでであるが、彼らの言うこと、することはすべてそのように考えて行かなければならないことを、肝に銘じておこう。

しかしエホバの証人よ!あなたが信じている人たち(組織)は、にせ預言者であることをいい加減に気がつくべきだ。

聖書には、にせ預言者は終わりのとき、サタンと共に火と硫黄の池に投げ込まれると書かれていることはご存じだろうか。

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示録20:10)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-28 17:51:32 (77 ヒット)

羊頭狗肉とは、中国のことわざで、羊の頭を表面ではかかげて羊の肉を売るよと言っておきながら、実際には安い犬の肉を売るという卑劣な商売のことだ。ごまかしの代表例として言われ続けている。しかしそのようなことが現代においても横行している。

 もちろんこのエホバの証人の元締めである統治体も実際その通りのことをやっている。そしてエホバだ。聖書だ。と偉そうにどこででも触れ回っているのは、真に片腹痛いことだ。
 彼らの「イエス・キリストを信じる」というのは、真っ赤なにせものというと少し大げさかもしれないが、少なくとも聖書に書かれているようには信じていないのは事実だ。彼らにとって「イエス・キリスト」は、エホバの証人のひとり以外の何ものでもない。
彼らが奉仕とよぶ伝道において一般の人に渡す「ものみの塔」紙には、聖書にある「イエス・キリスト」の感動的な話しを載せて、彼ら信者たちのやっている集会のテキストには、一切イエス・キリストは登場しないのだから、全くだまし討ちも良いところなのだ。

 同様に彼らのイエス・キリストの贖いの教えに付いても、そのとおりで、イエス・キリストの十字架(もちろん、「苦しみの杭」でも差し支えない)によって、私たち人間の罪は聖書が語るようには決して赦されないというのが、彼ら自身のものみの塔の教理、いや本音の教えなのだ。そして人間はどのようにして救われるかというと、彼らの「ものみの塔」ほかの出版物を読み、彼らの指導に従って野外奉仕をして彼らのような信者を作り出すこと。そしてその奉仕を見ている「エホバ」によって救われる。永遠のいのちをいただくことができるというのだ。
 しかもその保証は聖書のどこにも書かれていない。彼らエホバの証人統治体がものみの塔ほかの書類の中で言っているだけなのだ。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-09 15:59:58 (90 ヒット)

ヨハネ14:28には、 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところ来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。』と書かれています。

エホバの証人は、「エホバはイエスより偉い」と繰り返す。そして「だからイエスよりエホバ神を信じる」と言います。

 確かに新約聖書ヨハネの福音書の14章28節には、『父はわたしよりも偉大な方だからです。』と書かれています。イエスが、父なる神をあんなによくご存じのイエスが、そう言っておられるのだから、確かにそうなのでしょう。イエスが生きておられたときに、イエスが言われたお言葉です。イエスは、人間としてこの世界に下られたのでした。そしてこのことばを発せられたときは、人間でした。天におられる父なる神は、全知全能のお方なのですから、当然、人間として来られたイエスよりも、もちろん偉大であったでしょう。

 しかし、でも父なる神は、イエスを、人間を救うためにこの世に送られたのでした。私たちが救われるためにはどうしたらよいでしょう。父なる神の方が偉大だから父なる神を信じるべきでしょうか。しかしこれは父とイエスとどちらが偉いか、偉大であるかとは関係がない。偉大な神が、罪ある人間を救うためにイエスをこの世に送られたのだ。そしてイエスはこの父なる神から人間を救うという使命を十字架上で果たされたのでした。

イエスは、ヨハネの福音書14章38節に
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」と仰っています。イエスは父の命令によって天から下って来られたのでした。
また同40節には
「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」とあって、イエスを信じる者は永遠のいのちをいただくことができるのが父なる神のみこころだと言っています。

 イエスも父なる神(エホバ)もその御心は一つであって、協力して罪ある人間を救うために働いてくださったのでした。私たちは父なる神のみこころを大事にしなくてはなりません。父なる神のみこころは、私たちがイエスを信じて父からの永遠のいのちをいただくことなのです。安心してイエス・キリストを信じることによって、神からの永遠のいのちをいただきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-06 15:51:24 (108 ヒット)

ものみの塔は、いま、福音書から離れて、またパウロからも離れて、旧約聖書、彼らの言うヘブル語聖書にもどっているようだ。
エゼキエル書、詩篇に、エホバの証人たちの目をひきつけようとしている。

救いは、イエスにしかないことはわかっているのに。
世界は、もう終わりに近づいていると言いながら、何故、救い主イエス・キリストに目を向けようとしないのだろう。今こそ私たちの贖いの小羊イエス・キリストをもっと知ろうとしないのだろう。

これが真に終わりのときであれば、イエス・キリストをもっと知らなければならない。

また巡回大会だというが、その最大のテーマは、ロトの妻だという。ついに創世記アブラハムの甥ロトの妻は堕落した町から逃げるとき、天使の振り返ってはならないという忠告に従わずに、振り返って、塩の柱になってしまった故事を学ばせるのが彼らの思惑だ。

 危険だ!彼らは、ものみの塔から、その集会から、逃がさないようにしようとしているのだ!

エホバの証人よ!まだ間に合う!!イエス・キリストの救いにもどろう。

この方(イエス・キリスト)以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)


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