投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-09 15:59:58 (22 ヒット)

ヨハネ14:28には、 『わたしは去って行き、また、あなたがたのところ来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。』と書かれています。

エホバの証人は、「エホバはイエスより偉い」と繰り返す。そして「だからイエスよりエホバ神を信じる」と言います。

 確かに新約聖書ヨハネの福音書の14章28節には、『父はわたしよりも偉大な方だからです。』と書かれています。イエスが、父なる神をあんなによくご存じのイエスが、そう言っておられるのだから、確かにそうなのでしょう。イエスが生きておられたときに、イエスが言われたお言葉です。イエスは、人間としてこの世界に下られたのでした。そしてこのことばを発せられたときは、人間でした。天におられる父なる神は、全知全能のお方なのですから、当然、人間として来られたイエスよりも、もちろん偉大であったでしょう。

 しかし、でも父なる神は、イエスを、人間を救うためにこの世に送られたのでした。私たちが救われるためにはどうしたらよいでしょう。父なる神の方が偉大だから父なる神を信じるべきでしょうか。しかしこれは父とイエスとどちらが偉いか、偉大であるかとは関係がない。偉大な神が、罪ある人間を救うためにイエスをこの世に送られたのだ。そしてイエスはこの父なる神から人間を救うという使命を十字架上で果たされたのでした。

イエスは、ヨハネの福音書14章38節に
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」と仰っています。イエスは父の命令によって天から下って来られたのでした。
また同40節には
「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」とあって、イエスを信じる者は永遠のいのちをいただくことができるのが父なる神のみこころだと言っています。

 イエスも父なる神(エホバ)もその御心は一つであって、協力して罪ある人間を救うために働いてくださったのでした。私たちは父なる神のみこころを大事にしなくてはなりません。父なる神のみこころは、私たちがイエスを信じて父からの永遠のいのちをいただくことなのです。安心してイエス・キリストを信じることによって、神からの永遠のいのちをいただきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-06 15:51:24 (20 ヒット)

ものみの塔は、いま、福音書から離れて、またパウロからも離れて、旧約聖書、彼らの言うヘブル語聖書にもどっているようだ。
エゼキエル書、詩篇に、エホバの証人たちの目をひきつけようとしている。

救いは、イエスにしかないことはわかっているのに。
世界は、もう終わりに近づいていると言いながら、何故、救い主イエス・キリストに目を向けようとしないのだろう。今こそ私たちの贖いの小羊イエス・キリストをもっと知ろうとしないのだろう。

これが真に終わりのときであれば、イエス・キリストをもっと知らなければならない。

また巡回大会だというが、その最大のテーマは、ロトの妻だという。ついに創世記アブラハムの甥ロトの妻は堕落した町から逃げるとき、天使の振り返ってはならないという忠告に従わずに、振り返って、塩の柱になってしまった故事を学ばせるのが彼らの思惑だ。

 危険だ!彼らは、ものみの塔から、その集会から、逃がさないようにしようとしているのだ!

エホバの証人よ!まだ間に合う!!イエス・キリストの救いにもどろう。

この方(イエス・キリスト)以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-16 09:53:57 (55 ヒット)

2.「奉仕」をすれば救われますか。
ところで、彼らエホバの証人は、その行いを持っているというのだが、・・・彼らの行いというのは、言うところの「奉仕」を指しているのだ。そして彼らの中では、この「奉仕」ができるようになると、信仰があるとみなされるらしい。
ということを考えてみると、彼らの中ではむしろ信仰があれば行いがあるということではなく、行いがあれば信仰があるとみなすということになり、ヤコブの手紙とは全く違う結論になっている。

しかし彼らエホバの証人の行いとは、この「奉仕」という伝道活動のことである。この奉仕活動は、ヤコブにとって、いや、神に対する「奉仕」となるのであろうか。
もちろん、聖書を一行でなく、聖書全体から理解しているエホバの証人であり統治体だというから、よく読んでいると思うが、ヤコブの手紙の少し離れた箇所を読むと、伝道活動は、ヤコブの「行い」のうちに入っていない。
このように書いてあります。
「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」(ヤコブ2:1)
ヤコブは、イエス・キリストを信じているなら、えこひいきをしてはいけない、というのです。そして「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたの行いは立派です。」(2:8)とヤコブは続けます。
それならヤコブは、律法の行いを守ることによって救われる、神の罰から逃れられるというのでしょうか。
しかしヤコブは「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」(2:10)といい、「なぜなら、『姦淫をしてはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になったのです。」(2:11)と続けます。
つまりヤコブは、人間は律法の行いによっては決して救われることができないことを認めているのです。なぜなら、人間はすべての律法を守ることはできないから。
では、何によって?すぐそのあとに書かれている「自由の律法によって」はイエス・キリストのことだとある注解者は言います。
とすれば、ヤコブもパウロと同じ結論であることが分かります。

確かに「信仰」が本物だったとしても、頭の中だけのものであれば、何の役にもたたないでしょう。その信仰は偽物と言ってよいのではないでしょうか。真の「信仰」であれば、必ず行いになって表れるはずだからです。

しかしその信仰による「行い」は、エホバの証人のいう「奉仕」ではないことは明らかです。「彼らの奉仕」は、パウロのしたようなイエス・キリストを宣べ伝えることではありません。もちろんエホバの証人がパウロのようにイエス・キリストを宣べ伝えたとしてもそれで罪赦され神の国に入ることはできないでしょうが。
エホバの証人がその組織の命令に従って、「奉仕」をしてエホバのみ名を宣明するということをしたとしても、それは神の国から遠く離れている奉仕だということを認識しなければならないでしょう。聖書に書かれていない偽予言団体のための勝手な奉仕だからである。(この項終わり)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-16 09:48:58 (42 ヒット)

1.行いがあれば救われますか
 エホバの証人は、信仰の話しをする毎に、聖書のヤコブの手紙をひきあいに出して、行いが大事という。その行いとは、彼らがいつもしている「奉仕」がその自信になっているように思われる。
「ヤコブの手紙」を書いたヤコブは、イエス・キリストの弟で、使徒たちの中心となっていた主の兄弟と呼ばれる人だといわれている。そのヤコブが1通の手紙を信徒たち宛に書いた。それが聖書の中の「ヤコブの手紙」として認められている。
その手紙を読むと、次のような文がある。
「信仰も行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:17)
また「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いの無いあなたの信仰を、私に見せてください。」(ヤコブ2:18)

エホバの証人は、ヤコブの手紙のこの部分を引用して、JWは奉仕をしているので信仰を持っていることが証明されていると主張する。つまり彼らは奉仕(行い)をしているので信仰を持っていることが証明されていると言い張るのだ。

しかしこのヤコブの手紙は実はそんなことは言っていないように思われる。その部分だけでなく全体をよく読んでみると、信仰があるのなら、行いも当然あるはずだといっているように思われる。図で書けば、信仰→行いとなるはずと言っている。現にこの引用を見ても「信仰も行いがなかったら、」と言っているのであって、「行いがあれば信仰もあるはず」という結論ではない。
逆もまた真であるというが、このところでは、逆は真ではない。絶対にないのである。
「もしあなたに信仰があるというのであれば、行いもあるはずではないか」とその「信仰」の内実を問うているのである。しかしその行いがないのなら、信仰もないのではないかという。(続く)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-29 00:16:16 (70 ヒット)

神は、原始、ことばをもってこの世界を創られた。聖書創世記を始めから読んでみられるとすぐに分かる。創世記1:3 神は仰せられた「光があれ」すると光があった。
1:6神は仰せられた。「大空が水のただなかにあれ。水と水の間に区別があれ。」
と、神は6日間でことばによって、この世界をお創りになった。

 また、新約聖書(ギリシャ語聖書)にあってもそのようだ。ヨハネの福音書を見ると、
1章1節には、『初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは、神であった』とある。この「ことば」はイエス・キリストのことである。イエスは、その存在が神のことばであり、また神なのであった。

 聖書は、神の言葉といわれているが、聖書が「ことば」をどれだけ大切にしているかハッキリと分かるであろう。しかしエホバの証人は、いや、統治体は、その神の言葉である聖書を237箇所も変更、訂正した。そして彼らの言うには、神の御名を復元したと。しかし彼らは神の言葉に対して明らかに反旗を翻したのである。

 すなわち神の呼び名またはイエスの呼び名である「主」を、彼らの専売特許であるエホバに変更したのだ。しかもどの部分を変更したかを聖書の付録に掲載しているのだ。これは、聖書が神の言葉とほんとうに言っているのなら、神に対する侮辱であると彼ら自身も考えるのが当然ではないか。もちろん我らもそう考える。まったく「聖書は神の言葉」と広言している団体のすることとは思えない。

 さらに聖書の最後の書黙示録(啓示)の最後の章を見ると、22章18節「私はこの書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もしこれに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。またこの預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神はこの書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」と書かれている。このことばは、聖書の最後に書かれているので、この黙示録(啓示)についてだけではなく、この新旧約聖書のすべてについてのことばと言っても、間違っていないだろうと言われている。

 彼らエホバの証人はこの呪いをかけられているのである。


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